「円熟のブラームスのピアノ作品」
三船文彰
ブラームスの音楽について考えてみる。
他の作曲家よりも秘めたる熱い思いを、ブラームスの音楽に抱いている愛好家と演奏家が多いのはなぜだろうか?
ブラームス(1833~1897)の生涯をつぶさに回顧する時、われわれは彼の芸術を生み出すもととなった家庭環境、出会い、恋愛(一度も成就しなかったが)、交友関係、時代背景、もちろん彼自身の気質、性格と才能が信じられないくらいの最善の形で整えられたかを知り、驚嘆するであろう。それは、あたかも見えざる力がブラームスを通して人類に得難い歓びをプレゼントするために采配したかのようである。
ブラームスの音楽の特徴の一つは、激しい情熱を内包しながらも気品を失わない美しい旋律とリズム、豊かな和声、そして対位法など厳格な作曲技法で裏打ちされた作品の完成度、つまり本物の芸術すべてに共通する、最高度の霊感と窮められた職人芸を併せ持っていることである。しかし、それでもそれ以上の魅力を人々がブラームスの音楽に感じてきた。
貧しいコントラバス弾きの息子として、20歳までハンブルクの貧民街で育ったことは、ブラームスの音楽に観念的にならない粘り強いどっしりした土台を与え、20歳の時、ヨアヒムの紹介でシューマン家のドアを敲いたその日に、シューマン夫妻に認められたことで、瞬時にして二人の本物の芸術家の息吹を胸一杯に吸収し、その直後にシューマンの悲惨な最期を見届けたこと、そしてクララ・シューマンという、芸術家の卵があこがれとして望みうる最高の女性に抱いた一途な恋心と、夫亡き後のクララとその家族(7人の幼い子供!)への数年間の献身的な尽力のなど、早熟な人生の哀歓の体験が若いブラームスに人生の機微を感じとる豊かな情感を育てたに違いない。
しかし運命はブラームスに、早くから世の中が認めてくれるような道を与えなかった。階段を一歩ずつ昇るごとく、彼に試練を克服させながらさらに自らを鍛え上げさせた。好奇心と知識欲旺盛なブラームスは、宗教、哲学、美学、歴史、政治、文学などの膨大な書物を読み、バロックからの多くの大作曲家の自筆譜をコレクション、写譜、改訂を出版するなど、綿密に先人たちの作品をも研究し、西洋音楽芸術の正統にして、偉大な後継者として、自他ともに認められるだけの大作曲家として、能力を早くから身に着けていた。
その上、幸運なことに、一生を通じてクララ・シューマンやヨアヒムはじめ、多様なジャンルの一流の演奏家、芸術家、学者や愛好家たちとの家族のような親交が、ブラームスの独身生活に彩りと心の安定感を与え、創作は途中から友人たちと分かち合うことによって(特にクララ・シューマンにはほとんどの曲の最初の計画が知らされ、彼女の助言、意見、感想、批判をもとめた)、作品が推敲、厳選されていった。
しかし、ブラームスの作品をさらに魅力的にたらしめているのは、それだけではない。
恩義を重んじる一方、乱暴な言葉を場所もわきまえずに吐き、人々を辟易させる。自然や子供を愛し、純粋な状態を汚す俗悪への嫌悪をあからさまに示すのに、社会的地位の高い職を望んだ。しかし、お金には執着がなく、社会や後輩、友人に惜しまない援助をする。見知らぬ人の前では、気難しく振舞うのに、気心の知れた仲間の中では天真爛漫で、思いやりがあり、ユーモアと知性に溢れた人間として、慕われる。
われわれがブラームスの音楽にさらに心惹かれるのは、天からもたらされた霊感と作品の職人的な完成度だけではなく、恐らくその中に滲み出る人間ブラームスの生きる営みの純真さ、ひたむきさをも無意識的に感じ取っているからではないだろうか。
作品が彼の人生おりおりの景色(しかも他の作曲家よりも、曲の中に人生の春夏秋冬の移ろいを感じさせる)を反映している点では、ブラームスのピアノ音楽も同様である。
ブラームスが友人に語ったのが冗談でなければ、「小さい時にコントラバス奏者の父の影響でチェロを弾いていたが、先生が僕のチェロを持ち逃げした」からピアノを弾くようになった、と。10代の時、ピアノを酒場で弾いて家計を助けた。20歳の時、シューマン家を訪問した時には、自作のピアノ・ソナタ第1番を弾いて、シューマン夫妻を驚かし、病身のシューマンが数年ぶりに筆を取り、「新音楽時報」に「神様が遣わした人がついにやってきた」と熱狂的に書いたことで、ブラームスがいち早く作曲家として世に知られることとなった。しかし、その後20年以上もブラームスは作曲家よりもピアニストとして生計を立てていた。
36歳の時にたまたま編曲したピアノ4手連弾の「ハンガリー舞曲」が大ヒットし、楽譜の印税の収入だけで生涯生活できる作曲家のさきがけとなった。そして、自作の管弦楽曲や室内楽は出版社の要求もあり、そのほとんどをピアノに編曲するなど、ピアノによって自分を最も表現できるだけでなく、ピアノが人生のすべてだったと言っても過言ではないにも拘らず、ブラームスのピアノ作品は思いの他少ない。大作のピアノ・ソナタ3曲はいずれも23歳までの若書きで、そのあとの10年間に変奏曲や編曲が十数曲ばかり続いたあと、いわゆる本当のブラームスらしいピアノ曲が作られたのが、そのさらに10数年後の45歳の時(作品76 と79の計10曲)と20年後の59歳の時(作品116、117、118、119の計20曲)まで待たなくてはいけなかった。もちろん、その間に作られた夥しい室内楽や歌曲には、ピアノが常に考え抜かれた形で作品の中心として存在していたが、その時代のブラームスの溢れる曲想と漲る創造意欲を表現するには、ピアノ・ソロでは不十分だったとも考えられる。
しかし、他の分野の曲と同様、ピアノにおいても、ブラームスはたゆまぬ推敲と変遷、そして数十年に渡る作曲技法の研究の積み重ねを、慎重に作品76から作品119の30曲で展開したとも考えられる。この30曲は、バッハ、ハイドン、モーツァルト、ベートーヴェン、シューベルト、メンデルスゾーン、シューマン、ショパンの諸先輩の作品を吸収消化した上で、それらのエッセンスを取り入れながら、ブラームスは独自の世界を築きあげるのに成功している。ここに西洋のピアノ音楽が一つの最も高い終着点に辿り着いただけでなく、次に始まる20世紀音楽の兆しをも含んでいる(例えば作品119の第1曲)。
そして、これらの曲集が、有名作曲家の世間向けの業績として作曲された多くの大曲(もちろんそれらの曲がこの世に存在しているだけでも神様に感謝したくなるくらいだが)の裏に、隠されていたブラームスの内面世界がいかに深く、美しく、豊かであることを知らしめてくれている点において、さらに意義深いものとなっている。
言うまでもなく、作品に命を与えるのは演奏家である。そもそも琢磨されたテクニックと詩人のような繊細なイマジネーションなくして、いい演奏というものは成り立たないが、一曲ずつが宝石のようなブラームスのこの30曲を表現するには、それ以上のものがピアニストに求められる。つまり、音楽的には諸先輩の巨匠の音楽へのオマージュとも言えるこれらの曲を表現するためには、まずピアニストがブラームス以前の作曲家の音楽をも熟知しなくてはいけないし、曲に込められたブラームスの心象世界が19世紀ロマン主義の最善のエッセンスとなれば、西洋の人文文化についての深い理解も必要だ。
ルース・スレンチェンスカが84歳にして、自分の演奏芸術の集大成として挑んだ今回のブラームスの録音がそれ以上に貴重なのは、シュナーベル、バックハウス、コルトー、ラフマニノフなどの巨匠から19世紀の音楽の伝統を直接に受け継ぎ、20世紀のピアニズムの進化にも寄与した彼女が、ブラームスのこれらの曲集の演奏を通して、21世紀の人間にとって、ピアノ音楽の本当の存在価値とは何かを示唆してくれたことだろう。
ルース・スレンチェンスカの芸術Ⅵ
- 録音
- 2009年6月12日~14日 劉生容記念館
- 使用ピアノ
- 劉生容記念館蔵 1926年製スタインウェイ
- 演奏
- ルース・スレンチェンスカ(ピアノ)
ラスト・コンサートから4年、84歳の伝説の巨匠ルース・スレンチェンスカが自らのピアニズムの集大成として描き出した、優しくも美しい幽玄なる未知のブラームスの内面世界!