ルース・スレンチェンスカ 2013年喜びの最終章―Ⅰ
人生の起承転結
世にピアニスト多しと言えども、ルース・スレンチェンスカほど音楽だけでなく、接した人々に心から意義深いと感じるエピソードを残した芸術家は少ないであろう。これは2003年1月(78歳)から2017年(92歳)の今まで通算6カ月以上スレンチェンスカの近くに身を置いて、彼女の音楽創造への取り組みや行住坐臥のすべてを見続けてきた私が得た結論だ。(2003年から2009年までのスレンチェンスカの日本の岡山での数えきれない出来事の一部は「ルース・スレンチェンスカの芸術」Ⅰ~Ⅵ集のCDの解説書に述べたのでご参照いただきたい。)
スレンチェンスカが人生の最終章(実は78歳の時にもそのように私が決めつけていたが)に差し掛かった今、この14年間(スレンチェンスカの人生の六分の一、私の人生の五分の一)の彼女の奮闘と輝かしい成果を振り返り、あらためて深い満足感を覚える。
音楽家としても、一人の人間としても波乱万丈な生涯を自分の強い意志と賢い努力で、荒地を切り開き、豊穣な花園に作り替え、みんなに美しい世界を提供してきたこの偉大な女性の人生の起承転結の結びの段階で、私のような者がこれほどの巨匠と、大げさではなく二人三脚で芸術の可能性の追求をサポートできたことは最上の幸運と言わずして、何と言おう!
「起」~モーツアルト以来最も輝かしい神童
ルース・スレンチェンスカの人生の起承転結の振幅は確かに常人の比ではない。第一次世界大戦で腕を負傷した才能あるヴァイオリニストを父親に、そして自分の娘が生まれる前から世界一の音楽家にしようと決め、児童虐待を地で行くスパルタの父親を持ったことでスレンチェンスカの尋常ではない人生が始まった。
3歳半からピアノを始め、4歳で演奏会を開き、6歳で大人顔負けの曲目でベルリンにデビュー、9歳でパデレフスキーとラフマニノフの代役を務め、ホフマン、ペトリ、シュナーベル、バックハウス、コルトー、ラフマニノフの巨匠がこぞってレッスンを授け、ヨーロッパ中を演奏して回り、ニューヨークタイムズが「モーツアルト以来最も輝かしい神童」と称賛したが、それらは毎日8時間体罰を伴った父親の訓練の結果だと大衆が知るのは、30代に彼女が過酷な自分の幼少時代の事を本にしてからだった。(もちろん常人ではスパルタ教育だけでラフマニノフの代役を務まるまでにはならないであろう。)
10代に入り、機械的な演奏だと酷評され天国から地獄に突き落とされた。自分には才能がないとピアノを諦めて自力でカリフォルニア大学バークレー校に入り、心理学を学び、あらゆるアルバイトをして自活、そして満たされない家庭生活の反動で、理想ばかり語り努力が伴わない男性と駆け落ちし、売血までして夫との生活を支えたが破局。20代の前半までのスレンチェンスカの人生は苦労と苦難のデパートとも言えるものだった。しかし、常人と違うところは、信じがたい苦しい境遇の中でも問題がどこにあるのかを常に分析し、自分の力で一つずつ克服して行ったということだ。ピアノを弾くこと自体がトラウマだったにも関わらず、生活の手段として徐々に演奏をするようになるも音楽の意味を見いだせなかった。
「承」~音楽は人の心を慰め、希望の扉を開ける
1953年、28歳の時、第二次世界大戦の後、まだ廃墟のままのドイツのケルンの教会で演奏した時、粗末な服を着て、失望と悲しみに打ちひしがれたかつての敵国の聴衆が立ち上がって拍手をしてくれたその瞬間に、音楽は人々の心の慰め、希望の扉を開けるためのものだと悟ったのだ。その時、過去の賞賛や失敗、コルトーやラフマニノフ先生の教えでさえ自分の中から消え失せ、ピアノと自分は友人で、仲間であり、ピアノと一緒であれば、あらゆる苦難と犠牲が報われるくらい聴衆の心の中を満たす能力があること、つまり自分の命の究極の価値とは何かを知ったのだ。それからはまさに破竹の勢いで世界中を演奏して回り(40歳までに2,500回近く)、多くの名指揮者と共演し、デッカで12枚のゴールドディスクを出し(ショパンの練習曲全曲を録音した最初のピアニストとなった)、「ピアノの女王」とまで謳われた。
しかし8 歳の時、南米への演奏旅行からニューヨークに戻ったある朝、浴室で血まみれの状態で目覚めた。消化器がひどい潰瘍になっていたのだ。一年間演奏をやめて休養しなければ命がないと、医者に告げられた。それでも一シーズンだけ演奏活動を中止してまた演奏旅行を続けた。休養している間に6つの大学からレジデント・アーティストの依頼がきて、演奏を続けながら教えたいという自分の希望に一番理解を示したサウス・イリノイ大学で教鞭をも取ることにした。
実は大学で教えながらも、スレンチェンスカは演奏会のペースを少ししか落とさなかったのだが、唯一の違いはマネージャーを置かずに自分ですべて計画し、自分がいいと判断したものだけ演奏会をした、ということだ。
スレンチェンスカのことだから、大学で教えることにも全身全霊で取り組んだ。最大限の準備と愛情で学生たちを鍛えた。学生だけでなく教職員からも愛され、サウス・イリノイ大学が誇りとする存在までになった。
長い演奏旅行から学校に帰ると、教え子が全員集まっていて、レッスン室が花やリボン飾りで埋まり、「先生、おかえりなさい!」という横断幕まで掲げてあった。家庭の団欒とは無縁だったスレンチェンスカは、やっと帰るべく家があるという幸せをかみしめたのだった。
「転」~結婚、夫の死、空白の3年
~台湾の教え子との繋がり、そして日本へ
スレンチェンスカの人生は「転」の節目を回っていた。そして決定的だったのが、友人の計らいで知り合った同じ大学の政治学のJames Kerr教授だった。知性的で、ユーモアがあり、スポーツマン、その上音楽と美術にも造詣が深い、このパーフェクトの男性を最初スレンチェンスカは自分より7歳年下ということで、自分にはもったいないとプロポーズを断っていたが、お互い自分の世界を伸ばしながら友達のように一緒に暮らそうという提案に賛同して、42歳の時に結婚したのだ。
スレンチェンスカは演奏家、教授の他に家庭主婦という新しい役割が加わり、料理、園芸にも精通することになったのだ。76歳でご主人様が亡くなられるまでの34年間は、世間並み以上の夢のような楽しい幸せの家庭生活だった。しかし、3年間の病院での闘病の末の夫の死は、スレンチェンスカには青天の霹靂に近い耐え難いものとなった。生きる意味さえ失い、72年間一日たりともピアノを弾かない日はない彼女が3年間ピアノから離れた。
老人ホームの予約までして意気消沈の先生を見て、台湾のかつての教え子が台湾の東呉大学で一年くらい客員教授をしながら元気を取り戻してほしいと動き、77歳の2002年の秋に台湾に渡った。そこからスレンチェンスカの人生の結びの曲がり角が180度急転回を始めた。
台湾の人々の暖かさと尊敬の念に助けられ、元気を取り戻し、瞬く間に多くの授業が評判を呼び、乞われて演奏会も再開した。
その3か月後の2003年の1月に台北での私が企画したホームコンサートにスレンチェンスカが飛び入りでショパンのエチュードを弾いたことで、今につながる日本での多くの業績とストーリーが生まれようとは、その時スレンチェンスカも私も夢にも思わなかった。しかも80歳前後のわずか数年でこれほどの歴史に残る豊穣な業績が!
2009年に私が長年の希望だったブラームスの30曲のピアノ曲集をスレンチェンスカが一年半の準備と苦闘の末、岡山の私の所で最高の状態でレコーディング出来たことで、全ての作曲家に精通している先生にいくらでもさらに録音を残してもらいたいと願う気持ちを押さえて、一つの終止符を打つことにした。今度こそは、先生には常に自分を超えて、何かを成し遂げなくてはいけないというプレッシャーと苦しい練習から解き放たれ、余生をピアノと心安らかに過ごしてほしいと願った。
幻のピアニスト、超人ピアニスト、最強のボクサー(どのピアニストと弾き比べてもノックアウト出来る)、現代に生きているチラノザウルス、ひいては、E.Tと年を追って私がスレンチェンスカに付けたあだ名も過激さを増していったが、ついに核燃料を体の中に持っているかの如くの疲れを知らない、身長145cmに満たないこの老婦人も休む時を迎えることになるのかと思っていた。
披露宴でMasaeのために一曲弾きましょう!
しかし4年後の2013年の夏に私の娘の結婚式の知らせを送ったことで、スレンチェンスカの冬眠を目覚めさせてしまったのだ。
「私が東京へ行って、披露宴でMasaeのために一曲弾きましょう!」
2003年の初来日の時から、毎回2、3週間の滞在中、そばで練習を見守り、お茶を出し、一緒に食事や散歩をし、自分の孫のように可愛がっていたまだ中学生だった私の娘が結婚することになったのだ。「Masaeは奥様になるのね!」先生は興奮さめやらずだった。
さっそく演奏曲が送られてきた。「メロディの断片だけでケッヘル番号が言えるくらいモーツァルトの曲が好きな彼氏のためにモーツァルトのピアノ・ソナタ変ロ長調を弾きましょう。第二楽章は新婚のカップルが一緒に歌う愛の歌、第一と第三楽章はうっとりと見つめ合いながら手を取り合って二人が踊る感じで、二人の結婚のプレゼントにふさわしい曲だと思う」。
私は、2007年の4月にスレンチェンスカが岡山県北の千年の醍醐桜への奉納演奏で弾いた、私のところにあるクララ・シューマン使用のグロトリアン・スタインヴェッグを東京の結婚式場に運ぶことにした。
式の準備を進めているうちにさらに贅沢なことになった。なんと同じように私の所で最初から演奏にこられ、娘を小学生の時からずっと見続けてきたヴァイオリニストの久保陽子さんも演奏に駆けつけてくれることになったのだ。
さらに、私の父の若い時の友人で台湾の奇美企業の創業者、許文龍氏が自分の奇美博物館蔵の1,600本の中の最高の銘器、1722年のストラディバリ「ヨアヒム=エルマン」を副館長郭玲玲ご夫妻に託して披露宴で久保陽子さんに弾いてもらい、錦上に花を添えるよう取り計らってくれたのだ。
披露宴で二人の巨匠が歴史的な銘器で演奏してくれるという、前代未聞の贅沢すぎる結婚式が執り行われることとなったのはありがた過ぎて勿体ないことと思い、東日本大震災の直後から自分が出来ることはなんでもしたいと、スレンチェンスカが言われたのを思い出し、久保陽子さんは実際に被災地で慰問演奏を行ったこともあり、大震災の年の冬に私に大震災の慈善チェロ演奏会を主催してくれた(一社)大学女性協会に応援をお願いして、同じ東京求道会館で東日本大震災へのチャリティ演奏会を開くことにしたのだ。
「名器と巨匠 究極の出会いコンサート」。ルース・スレンチェンスカと久保陽子の二人の名演奏家が親友だったクララ・シューマンとヨアヒムの使用した楽器で演奏するという、まさに一期一会の演奏会に発展したのだ。
演奏曲はクララ・シューマンのピアノにちなんで、シューマンの「交響的練習曲」が選ばれた。久保陽子さんが演奏するバッハの「無伴奏ヴァイオリンのためのパルティータ第2番」とちょうどバランスがいいし、その時代にクララとヨアヒムがそれぞれよく演奏していた曲で、会のタイトルにぴったり、何よりも89歳になろうとしている老演奏家がシューマンのこの曲を弾いてくれるだけでも大変ありがたいことだと思った。
美智子皇后と連弾のお約束
しばらくして、ルース・スレンチェンスカが東京で演奏するというニュースが美智子皇后の下に届いた。実は2005年の岡山での80歳記念ラストコンサートの後、ピアニスト岩崎淑さんのたっての推薦でスレンチェンスカを御所にお連れし、皇后さまと親しくピアノを通して親交を結んでいたのだが、その時に、皇后さまが「今度先生がいらっしゃる時にはぜひ連弾をいたしましょう」と約束をされたのだった。
皇后さまが演奏会にいらっしゃるかもしれないということで、皇后さまのために、ベートーヴェンの「ヴァルトシュタイン」ソナタを追加し、合わせてラフマニノフの前奏曲作品32-5、バーバーの夜想曲といういかにもスレンチェンスカらしい洒落た充実すぎるプログラムに膨らんだ。披露宴での演奏の延長線で楽しんで演奏してもらえれば十分、という我々の願いとは裏腹に、これはまた大変な練習の日々が始まるぞと私は危惧していた。その上、それ以外のスケジュールもどんどん増えて行った―これまで同様に。
2013年12月2日、スレンチェンスカは日本航空に勤務していたファンの方の計らいで、ニューヨークの自宅から成田空港まで職員たちによる大統領以上の手厚い護送の下で、無事日本に到着した。8日の結婚式の前にセッティングした演奏会に向けて、到着した翌朝から80年変わらないいつもの練習が始まった。6年ぶりに対面するクララ・シューマンのピアノはさらに再生した姿で、求道会館でスレンチェンスカを待っていた。
関係者だけに内密にしていた演奏会のニュースがいつの間にか広がり、東京都の指定有形文化財にもなっている浄土真宗の教会堂の求道会館は上限120名の聴衆しか入らないため、直前に夜以外にも午後に同様の演奏会をすることとなった。
音楽関係者がほとんどを占めた12月6日のこの演奏会が、2003年から8回も来日しているスレンチェンスカの東京での初めての演奏会となった。演奏会は素晴らしいものだったが、ただ楽しみにしておられた皇后さまはご外遊のためご光臨かなわず、急遽結婚式の後に御所に呼ばれることとなり、8年前の皇后さまとの連弾の約束が果たされることとなったのだ。
演奏会が終わっても、スレンチェンスカに休む時間はなかった。披露宴で演奏するモーツァルトのソナタのため、演奏会の翌朝から結婚式のホテルのピアノで一日中練習を続けた。娘たちには世界中どこにもない、信じられないくらいありがたい、巨匠のピアノに祝福された結婚式となった。しかし、式の後もスレンチェンスカに予定が次々と入っていた。結婚式の翌日はスレンチェンスカの大ファンの(一社)倫理研究所の所長丸山敏秋氏の招きで、御殿場市にある同所の富士教育センターに招かれたのだ。
曇り時々雨という予報にも関わらず、我々が到着した時から富士山にかかっていた雲が消え、富士山がガラス越しに見える所に、丸山氏が東京のご自宅から運ばせたピアノで、富士山に捧げる演奏会がわれわれの思惑通り始まったのは言うまでもない。
武庫川女子大学付属高校・中学~生徒たちとの出会い
翌10日はスレンチェンスカがもっとも楽しみにしていた日だった。その数か月前に、兵庫県の武庫川女子大学付属高校と中学で音楽の教師をしている先生のファンの方から、授業でスレンチェンスカのブラームスのCDを掛けたところ、数十人の生徒が英語でファンレターを書いたので、先生に転送してほしいとの連絡を受けた。生徒たちの手紙を見て、その純粋な感性と熱い気持ちに動かされた私は、先生が日本に来るので東京の演奏会にみんなを招待すると返事をしたが、ちょうど期末テストに当たるということで、私が先生を学校にお連れすることにしたのだ。
御殿場市から東京に戻ったのは深夜だったが、翌朝6時には東京のホテルを出て昼前に西宮市にある学校に到着。さっそく中学と高校の女
子生徒100名近くが待つ教室に通された。CDで演奏していたのが、この身長が小学生にも満たない白髪のおばあさんであることに生徒たちの目は驚きと好奇心で輝いていた。
始めに、スレンチェンスカは生徒たちに女性としての自立の大切さ、音楽を通して世界のどんな人とでも交流できることを15分に渡り、分かりやすい英語で力強く話をしてから、教室の真ん中に用意してあったピアノに向かった。ピアノの周りに集まってもらった生徒たちは、一音たりとも聞き逃すまいという感じで、30分以上次々と演奏されたショパンの「別れの曲」やラフマニノフの前奏曲などを全員瞬き一つせずに聴き入った。
最後に私の希望で、先生の演奏へのお返しとして、生徒たちが合唱を披露した。若い女の子たちの情感豊かな声とあまりの上手さに、今度はスレンチェンスカの眼が点になった。(後で知ったのだが、彼女たちは全国コンクールの優勝者だったのだ。)
年齢差75歳の偉大な女性ピアニストと女の子たちの、音楽による心躍る交流の時間はいつまでも続いてほしいと願った。何よりも、若者らしい純朴さと前向きな美しい心を持ったこのような女の子たちを見て、日本の将来は明るいと私は確信した。
この日も東京のホテルに戻った時は、深夜を回っていた。しかも朝から食事を取る時間がなかったので、東京駅で簡単に夕食を済ます他なかった。われわれはスレンチェンスカが89歳の老人であることをすっかり忘れていた。
皇后さまとスレンチェンスカ~音楽による心の交流
いよいよ御所を訪問する日がその翌日となった。午後4時からの訪問に備えて、先生の希望で事前に銀座にある貸スタジオで朝から3時間練習を済ませた。しかし皇后さまのご要望のドヴォルジャークのスラブ舞曲はさらわず仕舞だった。「皇后さまがどちらのパートを弾かれるかも分からないし、初見で大丈夫」と。
12月の小春日和の晴れ渡った気持ちの良いこの日が、スレンチェンスカと私の人生の最良の日となった。御所での2時間以上にわたる皇后さまとルース・スレンチェンスカの会話と音楽による心の交流はこの世とは思えないもので、国民の幸せを常に祈っておられる、これほど素晴らしい皇后さまを日本国民が戴いている事に心から感動し、有難く思った。
もちろん皇后さまお一人だけのためにスレンチェンスカが披露したラフマニノフの前奏曲Op.32-5と「ヴァルトシュタイン」ソナタの第1楽章は、さらにとてつもない演奏だったのは言うまでもない。
ピアノを愛するこの二人の女性がドヴォルジャークのスラブ舞曲Op.72-2を連弾する姿は、私に天上で語らう天女を髣髴させた。
結局皇后さまが第1ピアノ・パートをお弾きになられたが、「私の人生で第2のパートを担当したのはその時が初めてよ」と、のちにいつもスレンチェンスカが嬉しそうに話すのだった。
「結」~最終章Ⅰ
台北でのコンサートとレコーディング
この翌日、スレンチェンスカは多くの教え子とファンが待つ台北へと出発した。しかし、東京での怒涛のスケジュールの後、台北でさらにハードな予定がいつの間にか出来ていた。ニューヨークでの練習で自信を深めたスレンチェンスカは、何度も客員教授に招いてくれた台北東呉大学のホールで、本格的な演奏会をしたいから準備をするようにと、台北に居る私の弟、隆三郎に言い渡してあったのだ。
台北に到着してすぐ、サウス・イリノイ大学で先生に師事したかつての教え子の王潤婷女史の家に泊まり込み、練習の日々が始まった。
そして、一週間後の12月20日の夜7時30分に東呉大学の松怡廳で、求道会館での全曲目と結婚式のために用意したモーツァルトのソナタを加えた、魅力的だが長大で力の要る、普通89歳のピアニストが挑むようなプログラムではないコンサートがスタートした。
東京での感動的な諸々の出会いがその日の演奏にさらに深い情感と輝きを付け加えたことは言うまでもなかった。その上、ミスタッチもほとんどない完璧な演奏に、スタンディングオベーションと歓声で聴衆が興奮を伝えていた。
終演してからほとんどの聴衆400名のサインに応じて、会場を去った時には真夜中近くの11時半を回っていた。
ライブ録音も首尾よく出来て大成功、パーフェクトなこととなったので、弟はこれで先生にゆっくり休みながら台湾でのクリスマスを楽しんで頂こうと思っていたら、翌朝、「私はもっと演奏できる、ベートーヴェンとプロコフィエフのソナタの楽譜を用意するように」と。
その後なんと数十年ぶりに風邪でダウンしたので、(病院に連れて行ったら、血圧も220あり、医者に即入院と言い渡されたが、医者嫌いのスレンチェンスカはもちろん従うはずもなく、その後もひどい咳が半年も続いたが)実質数日の練習で、急きょ同じ東呉大学のホールを借りて、半日で変イ長調のベートーヴェンのピアノ・ソナタとイ短調のプロコフィエフのピアノ・ソナタが追加でレコーディングされたのだった。 後で、私が「なぜ最後にプロコフィエフのソナタを選んだのか、何かの思い入れがあってのことか?」と尋ねたら、スレンチェンスカは、私の心を見透かしたかのようにいたずらっぽく答えた。「プロコフィエフの曲はずっと私のレパートリーでしたし、もう89歳だからロマンチックな、簡単な曲しか弾けない、と思われたくないからですよ!」と。
ルース・スレンチェンスカの芸術Ⅶ
- 録音 CD1 & CD2
- 2013年12月20日 ライヴ録音 台北、東呉大学松怡廰ホール
- 録音 CD2
- 2014年1月9日 台北、東呉大学松怡廰ホール
- 演奏
- ルース・スレンチェンスカ(ピアノ)
89歳の超人ピアニスト、台北での喜びに包まれた名演!
ベートーヴェンの「ヴァルトシュタイン」とシューマンの「交響的練習曲」は金字塔的名演!