超人ピアニスト、20世紀最後の巨匠ルース・スレンチェンスカとの出会い

三船文彰

Ⅰ これこそが本当のピアノの音だ!

チェロ弾きの歯科医

私は生活の大半の時間を歯科の診療にささげている、どこにでもいる歯科医の一人であるが、多くの同業者といささか異なる所があるとすれば、音楽への情熱がやや突出しすぎている、ということかもしれない。そのことがこれまでに私に多くの血涌き肉躍るような出会いをもたらしてくれた。その中でもルース・スレンチェンスカ先生との出会いは私には奇跡としか言いようのない経験となった。

私は画家で音楽好きだった父の影響で、小さい時からヴァイオリンを始め(台湾の南部の小さい町で小学生まで過ごしたので、先生はなくほとんど自我流だったが)、14歳のとき一家が岡山に転居してからチェロに転向し、以来チェロ一筋、歯科医になっても演奏と診療の二足のわらじを履いて家族をはらはらさせてきた。

いまから10年前に、あるご縁で1926年製フルコンのスタインウェイのピアノを引き受けた。翌年神戸へオーバーホールに出し修理が終って、岡山に送り返されて2週間後、その調律師の工房が阪神大震災で全壊し、危うい所で難を逃れたという運の強いピアノだ。

その後、56歳で早逝した父の17回忌に、父の残した絵を収蔵する美術館を自宅の前に建てる予定もあり、このピアノが生きるようにと美術館兼ホールの設計にし、この小ホール (劉生容記念館 Liu Mifune Art Ensemble)でコンサートを30数回重ねている。

制作中の劉生容(1966年)

このように私は歯科の本業をしながら演奏活動をし、一期一会の音楽会もプロデュースするという、音楽を愛する者の冥利に尽きる生活を送ってきたが、もちろんここに至るまでには多くの出会いとご縁の積み重ねがあり、何より天性の芸術家だった父から受け継いだ芸術への絶対的な愛着と尊敬の念がつねに私の生きる力となってきたからだと思う。

それでも、もし16歳の時にチェリストの岩崎洸氏との出会いがなければ、私の人生はかなり違うものになったのではないか。

同じ台湾で生まれた(洸先生は高雄生まれ)という強引なこじつけでコンサートへ押しかけ、チェロを聴いてもらい、故斉藤秀雄先生に紹介してくださったことが(私が最後の入門生となったが)私にチェロの魅力にさらに目覚めさせ、そして今に繋がる多くの演奏家と親しく知り合うきっかけともなった。そして2年前岡山シンフォニーホールでなんと、まったく指揮のシロウトである私が洸氏のチェロ独奏でドヴォルジャークのチェロ独奏曲を競演したりと、この10年来岩崎洸氏との交流がさらに親密となった。

ルース先生との劇的な出会い

2003年、洸先生とのご縁のある台湾で、台湾の若い音楽家達に洸氏の経験を伝えてほしいという思いから、台北で歯科を開業している、私同様音楽好きの弟とジェリアード出身のピアニストでもある弟嫁に準備の労を取ってもらい、洸氏と姉のピアニスト岩崎淑さん(淑さんは9歳まで5年間台湾の高雄で過ごしている)を台北へご案内し、知人の音楽評論家曹永坤氏のお宅で日台演奏家によるジョイント・コンサートをしていただいた時のことだった。

前半のシューベルトのピアノ五重奏曲「ます」が終了した時、曹氏が「今日の来賓の中にルース・スレンチェンスカ先生がいらっしゃっているので、彼女にぜひ一曲弾いていただきましょう」とアナウンスがあり、最前列中央に腰かけていた小柄の老婦人が満面の笑顔をたたえて、ゆっくりピアノへ進んだ。私はてっきりどこかの大使夫人が余興でシロウト芸のピアノを披露するのかと思い、「曹先生も場違いのことをなさるものだ。こんなすばらしい演奏のあとに!」と実はちょっとびっくりした。

しかしその考えも老婦人の指から、ショパンのエチュード作品25の1曲目の最初の音が出た瞬間、ふっ飛んでしまった。思わず私は休息のため戻ってきて、横に座っている淑先生と顔を見合わせた。

それでも、1番はどうも身長150cmにも満たないこの老婦人にとって、ウォーミングアップだったようだ。二曲目の12番で私はすっかり打ちのめされてしまった。滔々と流れる3分に及ぶフォルテシモのアルペジォの一音一音が何と力強く、情熱的であることか!そして何と気高い演奏の姿であることか!

聴衆が立ち上がって「ブラボー」と拍手喝采したのは言うまでもないことだったが、淑さんは「これこそが本当のピアノの音だ!」と叫んだ。

私は即座に老婦人の所へ行き、そして「ぜひ日本の岡山にある私の小さいホールで演奏して下さいませんか」とお願いした。しかし老婦人は微笑むばかりで答えてくれなかった。

その夜一緒に食事をしながら、さらに驚くべきことが次々とこの老婦人の口から出てきた。何と彼女は小さい時にホフマン、コルトー、シュナーベル、バックハウス、ラフマニノフという歴史の教科書に出てくる超巨匠達に師事(コルトーは7歳から14歳の7年間!)、ホロヴィッツとも生涯を通じて親しい友人だったこと、そして淑先生が流れをくむヴァンガロヴァ先生に直接教わったことを聞いて、淑先生は飛び上がらんばかりに驚きの声を上げた。

昼の2曲目のショパンの演奏とこのわずかなエピソードだけで、背筋をピンと伸ばし、小学生の身長しかない、われわれの前に座っているこの白髪の老婦人はタダものではないことを思い知らされた。

翌日さっそく弟に知人から資料を取り寄せてもらって、やっとこの老婦人の詳しいプロフィールがわかった。

そして3年前にご主人が亡くなって、ピアノを弾くことをやめてしまったくらい悲しみに暮れていた彼女を台湾人の教え子が台湾に呼び、台北の東呉大学で2002年9月から一年の契約で客員教授として台北に滞在中であることがわかった。

いずれにしても、私のような音楽愛好者の個人の音楽会にきてもらえるようなピアニストではない、まさに巨匠だったのだ。

台北から岡山に戻ってからも、ルース先生の弾いたショパンのエチュードの一音一音が耳から離れず、もう一度ぜひ聴きたいという思いが日々募り、とうとう3月に病院を4日間休診にして、ルース先生に直談判しに台北に飛んだ。ついに先生も根負けして「4月桜の花のきれいな時なら岡山へ行ってもいい」という約束を取りつけた。

このようにしてルース・スレンチェンスカの来日コンサートが実現することとなった。しかも驚くべきことに、これがなんと彼女の初日本デビューでもあったのだ。ルース・スレンチェンスカほどのキャリアとエピソードを持つ巨匠が、生き馬の目を抜くくらいあざとい日本の音楽興行界の情報の網からずっと逃れていたこと自体、信じがたいことだが、その答えは簡単だった。現在活躍中の演奏家以上のキャリアを積み上げていた彼女は40歳後半で、本当の自分の芸術を極めるべく、惜しげもなく商業的な演奏活動を一切やめたからだ。しかしそれがどのくらい大変なことかは私はまだ理解できなかった。

興奮しつつ4月6日のコンサートに向けて準備を進めながら、それでも私にはまだ一抹の不安を感じていた。78歳という高齢だから、いくらこれまでのキャリアがすごいと言ってもテクニック的にはかなりほころびもあることだろう。あってもおかしくない状態だ。これまでに80歳近い年齢で完璧な演奏ができたピアニストがいただろうか。そういう所は大目にみてあげなくてはいけない、などと考えていた。

しかし私の憶測はルース先生が岡山に到着したその日から木端微塵に砕かれることとなる。

4月4日夜9時、私の弟に伴われて(今度は弟が台北の病院を4日間休診にした)台湾からの長旅にもかかわらず、ルース先生はとても元気そうに岡山駅から出てきた。

聞けばその昼の12時まで台北の大学で10数人の生徒にレッスンをしてから出かけたというのでまず驚いた。

遅い夕食のあと「ピアノを先に見たい」とのことで家の小ホールへお連れした。幸い先生がいつでも練習できるようにと、ピアノは日本指折りの腕ききの調律師弘中俊也氏に2日前から20数時間かけて調整してあった。待ちに待ったルース・スレンチェンスカの音が初めて日本で鳴り響いた。

そのすさまじいパワーに眼を白黒させている私達に「飛行場を降りた時からこのピアノに一刻も早く会いたいとずっと思っていたのよ。明日は9時から練習します」と言って、夜中の1時頃満足そうにホールを後にした。

ラフマニノフ直伝の練習法

翌日9時きっかりに、ピアノの前に座り、その長くユニークな練習の日課(3歳から70年つづいている)がスタートした。

ピアノを自我流で弾く私にはプロのピアニストの練習とはどんなものかわかるはずもないが、チェロの場合から見てもそれはかなり不思議な練習だった。2日間を通してつねにメトロノームを使って練習した。しかも一番遅い速度から片手ずつ、そしてほとんどわからない程度に目盛りを上げていく。それぞれが所定のスピードに達してから今度は両手で一番遅い速度から同じように根気強くくり返す。しかしそれだけでは終わらなかった。われわれがもうすでに完璧すぎる、と思う仕上がりになっても、同じフレーズを今度は五本の指の一本ずつ、アクセントを変えながら(淑先生がルース先生に伺ったところ、ラフマニノフ直伝のシフティング・アクセント奏法ということだ)片手ずつからまた最初から同じことをくり返していく。

もちろん楽譜なし、暗譜で自在に曲のどのパートからでも片手ずつ練習できることは、プロなら当り前かもしれないが(知人のピアニストに聞いたら、それだけでもすごいことらしい)、そのように音楽がバラバラになる寸前まで徹底的に一音一音を分解しての練習方法にド肝を抜かれた。

そういう恐ろしく単調で忍耐力を試されるような練習は朝、午後、夜で各3時間続いた。それは彼女の75年のピアニストとしての日課であった。私はピアニストにならなくてよかったと心底思った。

ルース・スレンチェンスカが生まれる前から、ヴァィオリニストの父親がすでに母親のお腹に向かって「この子を必ず世界一のピアニストにしてみせる」という野望を語りかけたという。

そして3歳から1日8時間以上のスパルタ的な練習を課し、5歳の頃から、神童としてヨーロッパ各地を演奏して回った。演奏というよりもサーカスの興行と言ったほうがいいようなものだったらしい。どの演奏会も彼女が 曲を弾き終えるやいなや、聴衆はピアノに仕掛けがしていないかどうか調べたり、ある音楽評論家は「この女の子は畸形に違いない-つまり成長の止まった大人だ‐、医者に調べてもらわないと納得しない」と言い出し、とうとう有名な医学者が新聞で「この患者(!)は病気ではない」という記事を出さなくてはいけなかったほどセンセーショナルなものだった。

14歳までに数々の巨匠に教わり、40歳までには3千回以上のコンサートを世界各地で行った(現在の超売れっ子演奏家でも年間80回以上のコンサートをすれば人間的な生活ができなくなると言われるくらい過酷なスケジュールをこなしつづけても40年はかかる計算だ)、という経歴からだけでもルース・スレンチェンスカはまさに超人的なキャリアを持ったピアニストであることがわかる。

弾こうと思えば、どんな曲でも即座に9割以上の完成度で演奏できるこのような巨匠が、さらに全身全霊のエネルギーを注いで一音一音に磨きをかけている様子をつぶさに目撃して、私だけでなく人々の耳にいつまでも残り、心を揺さぶられる音の魅力の秘密がわかるような気がした。

そしてピアノを離れた時の、心底からの笑顔と温かい適切な一言一言は私たちに、いまはまさにこの世界で最も偉大な人間の一人と貴重な一瞬を共有している、という感動を新たにした。

このようして、2003年桜満開の4月6日、ルース・スレンチェンスカの初の日本演奏が劉生容記念館で行われた。

初来日コンサート

予想を上まわる豊かな音楽に聴衆全員息を飲み圧倒された。ピアノの一音一音が意味を持ち、メロディーとか作曲したベートーベンやプロコフィエフやショパンの意図はどうとかなど、そういうことはどうでもよかった。ルース先生の指から響いてくる一音だけで心が安まり、その中に無限の世界が広がっているような感じがして、いつまでも身を委ねていたいと思った。

そして私にとって最も感激したのは、アンコールに、私が台北へ演奏会の依頼に上がった時に、ぜひプログラムの最後にとお願いした、シューマンの「きみにささぐ」をアンコールに弾いて下さったことだった。「アヴェ・マリア」の旋律でしめくくられるこの感動的な小品は、恐らく最初で最後となる日本公演の最後の曲にふさわしいと思ったからだったが、この時、老巨匠はすべての聴衆にお別れのあいさつをしつつ、私に感謝の言葉をかけて下さっているように感じ、感無量だった。

この夜の演奏会は、演奏家、ピアノ、調律、聴衆、季節、場所、曲目のすべてが完璧な状態で調和した、稀有のものとなった。どんなマニアのクラシックの愛好者でも、一生に一度出会えるかどうかの、まさにユートピアを体現したコンサートだった。

何人かのピアニストが感激のあまり言った言葉がすべてを言い表わしている-「ルース・スレンチェンスカのピアノを聴いて、人生がかわりました!」

2003年4月6日、劉生容記念館での日本初演奏(非公開)

私にとって、ルース・スレンチェンスカ先生との出会いは奇跡に近いものだったが、巨匠からいただいた多くの思い出の中で一番貴重だったのは、75年間才能と命のすべてを注ぎ込んだピアノの演奏を通じて、一人の人間として示せる最大限の心意気を感じたことだった。

演奏会の翌日の昼にルース先生は再び弟と岡山駅から帰途についたが、その朝も、いつもと変わらず、朝の9時から出発のぎりぎりまでピアノの前に座り、一音一音練習を続けた。

その後、6月にSARSが猛威を振う台北で(町の交通量が10分の1以下に減り、公共施設への集会などがつぎつぎ禁止となるというような情況だった)、ルース先生のさよならコンサートが行われた。

「私はコンサートをやめない!私の演奏でもって台湾の人々にSARSに立ち向かう勇気を与えたい!」

演奏の最後に聴衆が全員立ち上がって拍手喝采したのは、ルース・スレンチェンスカのコンサートではいつものことだったが、一つ違っていたのは、台北国立シンフォニーホールの聴衆が全員、顔にマスクをつけていたことだった!命の危険を感じながらも敬愛する巨匠の最後の演奏に1,800人以上の人がかけつけたのだった。

私だけでなく、どんな人にとっても、ルース・スレンチェンスカとの出会いは奇跡であると思う。

春の夢の幻のように、ルース先生が現れて、そして消えた-一生忘れ得ぬ本当のピアノの音と思い出を残して…

しかしその時、私は半年後に、さらなる奇跡が起こり、4月の演奏会は単なる序奏にすぎない、と思えるほどの超人的なコンサートをルース先生が再び岡山で行うことになる、など夢にも思えなかった。

2003年11月、岩崎洸氏(指揮)と
サン=サーンスのピアノ協奏曲第2番の打ち合わせ
2003年4月、初来日の翌日 お茶事を初体験

Ⅱ 2回目の来日コンサート

仰天の日本での2回目の精力的な活動

 (11月公演後の友人への手紙より)
個人的には、2003年11月2日から10日の9日間、ルース先生の音楽とお人柄にさらに魅せられたことは言葉に言い尽くせない幸せでした。これほど時間が過ぎていくのが惜しいと思ったことはありません。一音一音、一言一言が心にしみて、感動で眼が涙でにじみっぱなしの日々でした。

2003年11月岡山シンフォニーホールでのリハーサル

そもそも11月の公演をお願いすることとなった最大の原因は4月私の小ホールでのコンサート後に「この十年来一番満足した演奏!」とルース先生が何回もおっしゃっていましたのに、いいように録音を残せなかった、という無念さが高じたことにありました。どうにかもう一度この小ホールのピアノで、ルース先生の演奏を記録に留めておきたいという切なる願いですべてがスタートしました。

そして日本の愛好者にこの幸運を広げようという考えで、この小ホール以外にも岡山シンフォニーホールでのリサイタル及び岩崎洸氏の指揮によるサン・サーンスのピアノ協奏曲、2回の公開レッスンなどと演奏会の数も曲目も増えていきましたが、先生は一度も多すぎるとはおっしゃらず、うちの小ホールが定員オーバーと聞けば、追加コンサートをしましょう、

公開レッスンの受講者が定員の5名をはるかにこえて16名となったと申し上げたら「一人でも受講できない子がでるのは可哀想だから」と4時間もレッスンの時間を延長して下さったりと、こちらが心配するくらいどんどんスケジュールを増やされました。日本での公開演奏で何かを残そうという先生の強い意志と心意気を感じました。

岡山に到着された11月2日の夜、私どもの小ホールに直行し、4月同様すべてのプログラムを一気に完全に弾かれ仰天したのは序の口で、それから6日間毎日朝9時に練習を開始し午後は3~4時間のレコーディング、夜はオーケストラとの練習や、コンサートの本番が連日のように続く、11月8日私どもお小ホールでの2回の追加コンサートの日などは朝9時から練習、午後1時から5時レコーディング、夜7時~9時コンサート、9時~9時半サイン会、9時35分~11時にもう一つの追加コンサート、というスケジュールを顔色一つ変えずに、しかも食事は昼のサラダのみで、お水も飲まずにこなされました。「ピアニストはこのくらい働くのが普通ですよ」と何でもなかったかのようにおっしゃりながら…。この日の演奏時間はちょうど新幹線で岡山・東京を往復するくらいの時間弾きっぱなしということで、78歳という年齢を考えたらもう超人としか言いようがありません。

「本当のピアノの音」~CD発売へ

最高の録音が残せるようにとのことで、ピアノは弘中俊也氏に一週間前から60時間以上、そのあともつきっきりで調整を行い、録音は久保陽子さんの最新CDを手がけていた、ベテランの吉岡、大谷両氏に一週間詰めてルース先生の本番と練習を録っていただきました。これで私の責任と夢がすべて完結致しました。

10日の夜、ささやかな送別会を致しましたが、「ルース先生がして下さったすべてのことに私達家族からできる唯一のプレゼントはこれらの録音です。どうか世界のピアノ愛好者のためにCDにして出版して下さい。」と申し上げたら、「これらの録音は日本で演奏したものですから日本人のものです。そしてあなたのものです。」とおしゃって下さいました。私のような者には荷の重すぎる大きな仕事ですが、先生のためそして先生の演奏をいつも聴きたい、聴いていたい方々のためにCDを出すことにしました。

(三船兄弟)「芸術家の使命は人生に夢を与えることです。二人のドクターミフネは十分にそれを理解してして下さっているので、私はあなたたちのためにベストをつくすつもりです・・・
(2003年5月ルース女史の手紙より)

 「喝采はやがて伝説となる」というキャッチフレーズがいささかも誇張ではなかったことは岡山シンフォニーホールでのコンサート終演後の1時間に及ぶサイン会での聴衆の熱狂と混雑ぶりで証明されました。そして今思いますのは、日本は今や二つのグループに別れてしまったということです。一方はルース・スレンチェンスカの演奏を聴いた人、もう一方はルース・スレンチェンスカの演奏を聴けなかった人。そして幸いにも私たちは前者に属してしるという悦びです。

願わくば、近い将来もう一度来日され、再び「本当のピアノの音」を聴かせていただけることを祈るのみです。

ルース・スレンチェンスカの芸術Ⅰ

伝説のピアニスト一期一会の日本初ライブ!
LIU-1001/02(国内盤CD2枚組)税込定価¥4400
録音 CD1
2003年11月5日、8日 劉生容記念館
録音 CD2
2003年11月7日 岡山シンフォニー・ホール
使用ピアノ
劉生容記念館蔵 1926年製スタインウェイ
演奏
ルース・スレンチェンスカ(ピアノ)
「これこそが本当のピアノの音だ!」

ピアノの音の概念を覆す幻の巨匠ルース・スレンチェンスカ 78歳にして初の日本公開演奏のライブ・レコーディング。ホロヴィッツが尊敬してやまないピアニスト、20世紀ピアノ(演奏史)の歴史の生きた証人スレンチェンスカが日本のクラシック・ファンに贈るピアノ音楽の真髄。

〒703-8266 岡山県岡山市中区湊836-3
FAX & TEL 086-276-8560

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