神童から成熟した音楽家へルース・スレンチェンスカの初来日によせて
(ピアニスト、桐朋学園大学院大学教授)
台湾での出会い
2003年1月20日、私は弟の洸(チェリスト)と共に台北のジュリアード音楽院の同窓会に招かれた。ハウスコンサートに出演し、同窓生たちとシューベルトの《ます》などを演奏した。
会の途中に「ピアニスト、スレンチェンスカさんがお見えになっています。ここで1曲弾いていただきましょう」とアナウンスがあった。聴衆の中から現れた150cmの小柄な老婦人はピアノの前に座ると、ショパン《エチュード》作品25-1と作品25-12を演奏された。作品25-12では力強く、フォルテと音楽的な流れでぐいぐいと引きこんでいくタッチに圧倒された。「すばらしい」と誰もが立ち上がって拍手した。78歳の彼女は、台北の東呉大学音楽学部に1年間の客員教授として招かれ台湾に在住していた。私の恩師が師事したイザベル・ヴァンガロヴァに彼女は学んだという。彼女のすばらしいテクニックはヴァンガロヴァ流なのか、とただ驚くばかりだった。
初来日のコンサートで
台湾でのコンサート後、その演奏に深く感動した三船文彰氏が、岡山の自宅に建てたプライベートホール(劉生容記念館)に彼女を招き、2003年4月6日コンサートを開いた。彼女の初来日となった。
コンサート当日の朝、私は彼女のリハーサルを聴いた。ペダルはなく、メトロノームでゆっくりとしたテンポで弾き始め、少しずつテンポをあげていく。これを丁寧に繰り返し行うので、必然的に時間を要する。私はその忍耐強い丹念な練習振りに驚嘆させられた。
その夜のコンサートでは、ラフマニノフの《前奏曲》、ベートーヴェンの《ソナタ「ワルトシュタイン」》、プロコフィエフの《束の間の幻影》、ショパンの《即興曲》全4曲、ショパンの《バラード第1番》と《エチュード》2曲を披露した。とても78歳とは思えないテクニックだ。小柄な体から発する強力なタッチは想像もできないほどで、音楽は生きいきと躍動し、また精神が安まるような緩い部分が耳に沁み入る音色の連続だった。コンサート前の昼食時、私は彼女にインタビューを試み、大変な師に学ばれていたことを知った。
巨匠に出会い、学ぶ~シュナーベル、コルトー、バックハウス、ラフマニノフ~
「私は一番よかった自分としか比較しません。もし今日の出来がよかったのなら次はもっとよくなるはず」。この言葉からもわかるように、彼女は多くの巨匠と出会うなかで、最大限に努力を続けてきたのだと思う。
5歳でカーティス音楽院に入学しヴァンガロヴァとホフマンに師事。6歳でベルリンに移り、アルトゥール・シュナーベルらに学んだ。シュナーベルが最も重視したのはベートーヴェンのフィンガリングだという。「常に易しく弾けることは必ずしもよくない、いつも音楽的でなければいけない」と。7歳から14歳までをパリで過ごし、アルフレッド・コルトーに学んだ。「腕をまわして弾くことができればどんなピアノでも美しい音が出る」と、コルトーより手首のテクニックを習得。バックハウスには6回のレッスンを受けた。しかし、当時のシュナーベルはバックハウスのライバルだったためシュナーベル版を否定、ベートーヴェンの原曲版で弾くように言われたそうだ。
ラフマニノフの代役としてリサイタルを成功させたのが9歳のとき。そのことに驚いたラフマニノフに呼ばれ、9歳と10歳の2回の夏にパリでレッスンを受けたという。「茹ですぎたスパゲッティのような指」と指摘され、毎日8時間練習するように言われたそうだ。
その練習というのが、第1音から第2音、第3音と順次アクセントの位置をかえて、ゆっくりと弾き始め、左右の指の音の確実性を高めていくシフティングアクセントという奏法で、一つひとつのアクセントを変えて弾くことによって各音がしっかりした音になるという。練習を続けることは非常にむずかしい。しかし彼女は「音楽家として一番大切なことは自分の感覚に忠実に従い、自分の弾きたい音が出せない限りピアノを離れてはならない」という。
ホロヴィッツとの親交
名演奏家との親交も深い彼女。殊にウラディーミル・ホロヴィッツとは21歳の年齢差があったが、終生友人としてつき合いが続いたという。
ある時彼女は、カーネギーホールで行うホロヴィッツの12年ぶりになるリサイタルのリハーサルに呼ばれた。ステージ上に並べた椅子に多くの友人たちを座らせ、なんと12日間もリハーサルを続けたそうだ。練習後ホロヴィッツはカードゲームを楽しみ、彼女と夫人はイタリアファッション雑誌を見たり、料理の話に花が咲いたりしたという。
余談になるかもしれないが、1962年、サンフランシスコ交響楽団の公演で彼女はソリストとして、ハチャトリアンが指揮者として出演することになっていたが、ハチャトリアンが都合で客演できなくなった。急遽、ブザンソン国際青年指揮者コンクールで優勝したばかりの小澤征爾氏に白羽の矢が立った。オーケストラ指揮者としての北米デビューとなった小澤氏の指揮はすばらしかったそうだ。
常に前をみること、前進せよ そして楽しみなさい、微笑みをもって
彼女のこれまでのキャリアから見ても、日本でコンサートが開かれていなかったことが本当に不思議なくらいだ。
78歳の彼女は、まさにすべてを極めていながらシンプルで自然体。そんな彼女だが、幼少から父親の耐えがたい練習、たとえば毎朝24曲のショパン《エチュード》を弾かなければ朝食を与えられない、ミスをすると平手打ちなど、ピアニストになるという課題のため精神的苦悩もあったのだろう、20代頃に音楽や演奏活動を拒否してしまった時期もある。そのような栄光と挫折を経て20代後半楽壇に復帰し、40代後半でまたそれまでの華やかなキャリアを放棄し、自分の芸術を極める努力をしてきた彼女は「一番むずかしいこと?それはどんな困難な状況下でもまだ『音楽が好き』でいられること。」という。彼女がここまで芸術家としての歩めをつづけてきたのは、この想いがつねにあったからだろう。
若者たちへのメッセージを尋ねると「常に前を見ること、前進せよ、そして楽しみなさい。いつも微笑みをもって」と。これらのアドバイスは、まさに貴重なものとなろう。
(「ムジカノーヴ」2003年7月号より一部改補筆して転載)
ルース・スレンチェンスカの芸術Ⅰ
- 録音 CD1
- 2003年11月5日、8日 劉生容記念館
- 録音 CD2
- 2003年11月7日 岡山シンフォニー・ホール
- 使用ピアノ
- 劉生容記念館蔵 1926年製スタインウェイ
- 演奏
- ルース・スレンチェンスカ(ピアノ)
ピアノの音の概念を覆す幻の巨匠ルース・スレンチェンスカ 78歳にして初の日本公開演奏のライブ・レコーディング。ホロヴィッツが尊敬してやまないピアニスト、20世紀ピアノ(演奏史)の歴史の生きた証人スレンチェンスカが日本のクラシック・ファンに贈るピアノ音楽の真髄。