ルース・スレンチェンスカ 2018年喜びの最終章 – III
2018年4月21日サントリーホール、奇跡のホール予約
演奏人生を登山に例えるなら、さしずめルース・スレンチェンスカは最も偉大な登山家の一人ということになるであろう。
2003年78歳の時点ですでに尋常ではない高い山をいくつも制覇してきたこの老登山家が、それから15年間さらに未踏の巨峰に挑み、それらの頂点をわれわれに知らしめるようになるとは夢にも思わなかったどころか、実はむしろ私がその都度もうこれで十分と、彼女の登山を止めていたように思う。
2017年の夏の岡山における私の親族20名による「Liu三船ファミリーArtアンサンブル」コンサートに92歳のスレンチェンスカがニューヨークから参加し、「残念ながら先生の演奏はありません」と手紙で先にお断りを入れたにもかかわらず、結果的に信じがたい内容のリサイタルのみならず、モーツァルト、ベートーヴェンのソナタそれぞれ4曲をも録音してしまったことに一番驚いていたのは、実はスレンチェンスカを一番知ると自負している私だったのだ。(2017年夏の活動の詳しいエピソードは CD「ルース・スレンチェンスカの芸術」VIII(LIU-1014/15)をご参照いただきたい。)
岡山のあと、2週間滞在した台北でベートーヴェンの4曲のピアノ・ソナタの録音をしたという報せを弟から聞いて、まったく冗談で「このくらいお元気なら、先生に東京で演奏をして頂きましょう!」と妻に話したら、「すぐにサントリーホールに演奏会の申し込みをしなさい!」と厳命された。妻はすでに私以上のルース・ファンになっていたのだった。
日本有数のコンサートホールのサントリーホールは一年後でも空きがあるはずはない、と形だけでも問い合わせしてみたら、なんと2018年の4月21日の土曜日の一日だけが空いていたのだ。
すぐに台北に滞在中のスレンチェンスカに演奏の意向を聞いたら、「来年私はもう93歳のよぼよぼの老人ですよ」といつもののらりくらりの返事。しかし次の朝には私の家に信じがたい内容の演奏曲目がFAXで届いていた。
私の冗談の一言からスレンチェンスカの大冒険がまた始まってしまったのだ。
しかし、ピアノを弾き始めて90年となるこの記念の年に、スレンチェンスカのこの15年来、もしかしたら一生の中でも一番過酷な山が立ちはだかっていようとはその時だれも予想は出来なかった。
4月のコンサートは中止です!
2017年の晩秋までは夏の岡山と台北での疲れを癒やすべくウィーンやパリへ気ままな旅行をしていたスレンチェンスカも、12月からサントリーホール・コンサートの準備を始めた。
2018年の1月初めには零下26度の寒さの中、40年教鞭を執っていたサウスイリノイ大学へ一人で出向いて、本番と同じプログラムを演奏し、その出来栄えに自信を深めた。
1月15日はニューヨークの友人たちが盛大に93歳の誕生日を祝ってくれ、春の東京のコンサートに向かって全てが順調に運んでいるように見えた。
しかし、その数日後に、教え子からスレンチェンスカが入院したという知らせが来た。
北米で大流行していたインフルエンザに罹り、たまたま友人が電話をしたため、家で倒れていたのが分かったのだ。友人数人で病院へ強制連行し、検査の結果、他にも酷い貧血と重度の栄養失調が発覚、即入院を言い渡された。
後で知ったのだが、入院3日目にはスレンチェンスカは病院から脱走して、家に逃げ戻っていた。スレンチェンスカは相変わらず極度の病院嫌いだったのだ。
教え子は長文のメールで事細かに先生の状態を知らせてきて、最後は必ずこう締めくくった。「4月のコンサートは中止です。日本に行ったら先生は死んでしまいますよ。」
私には返す言葉もなかった。実はスレンチェンスカが2011年の東日本大震災の翌日に「私が出来ることはなんでもしますから」と私にメールしてきたのだが、今回せっかく演奏会で東京まで来るのなら、その約束を果たして頂こうと、東北大震災の復興に取り組んでいる友人長谷川洋一氏と密かに3日間の分刻みの東北慰問演奏旅行をも企画進行していたのだ。病身ではない80歳前の人でさえも過酷という以上に殺人的なスケジュールとなっていたからだった。
4月21日は、さらなる大冒険となることでしょう
貧血と栄養失調はどちらも体の中のエネルギーが行き渡らないか、ない状態なので、ピアノを弾く体力があるはずがないし、医師の処方があっても短期間で改善できるものではないので、コンサートの中止という言葉が脳裏に去来し始めた2月の半ば頃、「先生の体調が少し良くなってきた」という知らせが来た。
それだけでなく、なんと友人、教え子たちの心配をよそにスレンチェンスカは日本行きに前向きで、医者嫌いにもかかわらず10数年前にやり残したもう片方の眼の白内障の手術にまで踏み切ったというのだ。
しかし眼の見え方は手術前とほとんど変わらなかったので、さらに満身創痍の状態となったが、演奏会への意欲はますます高まっていた。
「あなたが送ってきてくれた鉄剤や栄養剤は私の体に役に立っています。まもなく私は座って練習に励むことが出来るようになるでしょう。音楽はこの世界に美を提供するものです。音楽の中の真の美を共有するということは私達に最高の喜びをもたらします。音楽家はだれでも輝かしい将来を夢見るものですが、どれほど偉大な演奏家でも一人だけで困難な音楽のキャリアを積み重ねることはできません。あなたの長年のサポートで私は数々の素晴らしい景色の音楽の旅をすることが出来ました。4月21日は、さらなる大冒険となることでしょう。あなたの夢がかなうよう、今回も私は努力するつもりです。」
その頃からスレンチェンスカからいつもの前向きな内容のメールが届くようになったので、一日も早くサンフランシスコに移動するよう促した。サンフランシスコには13年前からスレンチェンスカのファンになって、いつも当地でお世話を買って出る私の台湾大学時代の友人たちが先生の到来を待ち構えていた。サンフランシスコで心身の状態を整えてから台北に飛び、さらにそこで時差を解消し、練習を重ねてから日本に乗り込むというのが、これまでスレンチェンスカが日本で演奏会をするときのゴールデン・ルートだった。
スレンチェンスカの想像以上の衰弱ぶりにみんなが驚き、協力して先生の体調の回復に努めた。それでも「演奏会は無理でしょう」というのがみんなの一致した見解だった。
すべてが終わってから知ったのだが、サンフランシスコに着いて一週間経ってもまだ5分間もピアノを弾く体力がなく、3月中旬でやっと30分間弾けるまでに回復しただけだったという。
その上、予定していた台北への移動の時期が押し迫った4月初めにさらに思わぬビザの申請の事務的な問題が持ち上がり、興行ビザが整わなければ日本のサントリーホールの舞台には立てないので、誰しも「もうこれまでだ」と思ったくらい、実はこれが今回の演奏旅行の最大の難関となった。まさに一難が去る前にまた一難という絶体絶命の状態に追い込まれたのだ。
しかし思わぬ助力で間一髪解決出来、4月12日に飛行機で、私の弟の家族が待ちかねていた台北へ飛んだ。
台北にはさらに教え子や古い友人が多数いるので、スレンチェンスカの93歳の偉業をサポートするべくみんなが最善を尽くした。弟が次々と送ってきた写真と映像で、日々回復しつつ凄まじい迫力で練習しているスレンチェンスカの姿を見て、私はやっと胸を撫で下ろした。
歴史的な瞬間に立ち会う高揚感
いよいよ本番の3日前の4月18日の夜に、スレンチェンスカは長年の友人である台湾の経済界の重鎮、黄茂雄氏ご夫妻の護送のもと、台北から羽田に到着した。もともと小柄の体が昨年の夏よりさらにひと回り縮んだように感じた。しかしそこにはいつもの明るく前向きで、新しいアドベンチャーへの意欲が全身に漲っているスレンチェンスカの姿があった。
パリから私の妹とその娘、台北から弟夫婦、サンフランシスコから私の友人たち、そして私の家族総勢10名のサポート・チームのメンバーも次々と東京に集結し、いよいよスレンチェンスカの冒険の準備が整った。
東京到着の翌日の朝から、スタインウェイ・ジャパン社で練習が開始された。
今回のプログラムはバッハとショスタコーヴィチの同じ調の前奏曲とフーガから始まり、5曲のブラームス、ベートーヴェンの「テンペスト」ソナタ、ラフマニノフとショパンの練習曲で締めくくるという、いかにもスレンチェンスカらしいユニークな選曲だが、「三大B」も含み音楽史を縦断する、ピアニストのオールマイティの力量が試される重量級のものだ。
体が危うい状態から完全に脱していないことは誰の目にも見えていたが、しかし前年夏以上の一音ずつのパワフルさにみんなが度肝を抜かれた。
何のことはない、すでに完璧に近い仕上がりになっていたのだ。
しかし、そこからまたいつものスレンチェンスカ流の練習、つまり曲の一か所を各指のアクセントを変えながら(シフティング・アクセント奏法)メトロノームの50から徐々にテンポを上げていくという気が遠くなるような練習が、一日6時間繰り返された。
それは本番当日のサントリーホールのステージの上でも変わらず、メトロノームを置いての練習が朝の10時から開演40分前まで続いた。
舞台に向かって右側の聴衆も弾いている指が見えるようにとのスレンチェンスカの要望で、サントリーホールで初めて、ピアノの鍵盤がやや反時計まわりの配置となった。
録音マイクと6台のビデオカメラも準備万端整い、いよいよ開場を待つのみとなった。
天気は快晴。聴衆はコアなファンが岡山から180名、台湾から60名、アメリカから30名駆けつけ、他に私の知人が呼びかけた方々を含め、予想を超える計1,400名が集まった。古くからのファンはスレンチェンスカの体の回復にハラハラし、新しいファンは93歳のピアニストの体力にドキドキしながらも、これから始まる2時間の演奏は間違いなく一期一会なもので、歴史的な瞬間に立ち会うという高揚感で、会場はかつてない熱気に包まれていた。
熱狂的なスタンディング・オベ―ション
スレンチェンスカを舞台に送り出すと、ほどなく舞台裏の小さいモニターの画面からショスタコーヴィチの前奏曲が響いてきた。それはまさしくスレンチェンスカのピアノの音だった。
演奏会の日は食事を取らない習慣は変わらなかったので、93歳で朝から120%の力を出しての長時間の練習の後、前半後半ともに一時間かかる本番の演奏をこなすだけの体力が残っているのかという私の心配をよそに、ついに最後の曲、ショパンのエチュードOp.25-12の最後のパッセージが凄まじい迫力でモニターのスピーカーから伝わってきた。
さらにモニターの画面に目を凝らして見れば、ほとんどの聴衆が立ち上がって拍手を送っていた。かつて見聞きしたことのないくらい熱狂的なスタンディング・オベ―ションが7、8分も続いたので、予定外の嬰ハ短調のショパンのワルツをアンコールとした。
演奏の後、詰めかけた興奮冷めやらない聴衆のために、この数年来さらに手が震えるため書くのに30秒はかかる「RuthSlenczynska」のサインを行列の最後の一人まで丁寧に書き終えたのは、閉館10分前だった。
多くの関係者のサポートのもとで血がにじむような努力を続け、ついにスレンチェンスカは居合わせた聴衆全員が一つのファミリーとなるような生涯忘れ得ぬ奇蹟的な時間を作り出した。準備、会場、裏方、演奏内容、聴衆…すべてにおいて音楽家の模範となりうる完璧な演奏会だった。
そして、夜中の11時から始まったわれわれの家族との会食で、スレンチェンスカは真っ先に厚さ3cmのステーキを平らげたのだった。
東日本大震災の被災地への慰問演奏
しかし、実はサントリーホール・コンサートはスレンチェンスカの今回の大冒険の単なる始まりにしか過ぎなかった。さらに過酷なスケジュールを私が組んでしまっていたのだ。
時間が取れるのがこの日しかないということで、演奏会の翌日に3社の雑誌の取材を私が引き受けてしまい、朝から2時間ずつのインタビューが終わった時にはすでに夕方になっていた。
息つく暇もなく、翌23日の早朝7時にはホテルを出て、東京駅から一行9名でスレンチェンスカをエスコートし、3日間の東北慰問演奏へと旅立った。
いつものことだが、「とにかく先生は私の後ろに付いてきてください。そしてお座りになったらピアノを弾くだけです」とだけ伝えて、今回もスレンチェンスカには日本での活動の詳しいスケジュールを教えていなかった。
初日は八戸駅から岩手県の洋野町へ移動。途中の桜の花の名残りを楽しみつつ、まず岩手県立種市高校での生徒の潜水訓練を見学、その後洋野町立宿戸中学校で全校生徒と音楽の交流会を持った。
ピアノを囲んで、私の即興のリクエストで次々と繰り広げられる演奏を間近に見聞した生徒たちは、俄然この自分たちよりも身長の低い老ピアニストに興味を持ったようだ。
会の最後にある女子生徒が「長生きの秘訣はなんですか?」とスレンチェンスカに質問した。
「心から他人を愛することです」。スレンチェンスカが即答した。
「心から他人を愛することで、他人もあなたを愛してくれて、支えてくれるから長生きが出来るのですよ」
夜の演奏会場の洋野町民文化会館セシリアホールに着いたのは日が傾き始めた頃だった。その時初めて、夜にそこで演奏会があることを知らされ、スレンチェンスカは指のウォーミングアップを始めた。
津波の被害を免れた立派なホールに多くの町民が詰めかけ、スレンチェンスカのピアノの音が全員の体に染み渡った。
演奏会の後、ホールの入り口の聖セシーリアの彫像を見て、スレンチェンスカが叫んだ。「セント・セシーリア(サンタ・チェチーリア)は私の守護聖人ですよ!」
しかし、このような奇遇はこの15年来スレンチェンスカの周りにはよくあることだった。
町の関係者と夕食を済ませ、一時間の山道を車に揺られて町営の宿泊施設に着いた時は真夜中近くになっていた。
「これはアイドルグループのコンサート・ツアーよりもきついね」と、その後誰かが言った。
翌24日も早朝に出発。洋野町立大野中学校でも同様の音楽交流会をして、八戸駅から仙台に移動。午後に訪問した合唱の名門校、県立仙台南高校で生徒の素晴らしい歌声に触発され、スレンチェンスカは説明を加えながら次々と演奏。76歳の年齢差を感じさせない、気迫に満ちた真剣な演奏の交歓が夕方まで続いた。
夕食を取る間もなく、市内の「仙台中央音楽センター」へ。そこでもピアノやヴァイオリンを学ぶ子供たちや青年の合唱団がスレンチェンスカの到来を待ち構えていた。疲労困憊のはずだという我々の心配をよそに、音楽を目指す子供たちのために詳しい曲の説明の後にベートーヴェンの「テンペスト」全楽章が演奏された。ぶっつけ本番のこの演奏は、サントリーホール・コンサートでの演奏を彷彿させるものとなった。
福島での感動的な出会い
最終日の25日の朝、福島に移動。子供たちに間近で音楽の素晴らしさと人間の能力の可能性を目撃してもらうため、この15年来機会を捉えては学校へスレンチェンスカをお連れしてきたが、午後の福島市立森合小学校での会はその集大成となる一番の盛り上がりとなった。自分たちと同じくらいの身長の80歳も年の離れたおばあちゃんが弾くショパンの「黒鍵」の信じられない指捌きに感動した子供たちは、スレンチェンスカに押し寄せ、あわや将棋倒しになるところだった。
前日同様夕食を取る間もなく、今回の最終演奏会場となる「福島市音楽堂」に移動。
パイプオルガンを備え、壁面全面が九谷焼の青いタイルで飾られたこの壮麗なホールは、東日本大震災の被災者に音楽を捧げ、復興を祈るのに一番ふさわしい場所に思われた。
福島一中合唱部と福島大学混成合唱団の若者の歌の後に、スレンチェンスカがシューマン、バッハ、ブラームスの曲を演奏。
演奏会の最後に私は聴衆に、地元の新聞記者が教えてくれたある福島の歴史を伝えた。「今から150年前に会津藩士がアメリカに入植した場所がカリフォルニアのサクラメントで、そのサクラメントはまさにルース先生が生まれた町なのです!」
この奇蹟に近いご縁に会場がさらに盛り上がり、スレンチェンスカのピアノ、私のチェロ、合唱団そして聴衆全員で皇后陛下作詞の「ねむの木の子守歌」をしみじみと合奏し、スレンチェンスカの念願の東日本大震災への慰問演奏旅行の幕が感動的に下ろされたのだった。
皇后さまとの親交、3回目の御所への参内
翌26日の早朝に急遽セッティングされた福島県知事との面会を終え、正午東京駅に着き、その足で都内の貸スタジオへ直行。その日の午後皇后陛下に御所へお招きを頂いたため、御前演奏に備えて時間ぎりぎりまでスレンチェンスカは練習を続けた。
2005年以来皇后さまと親交を結んだスレンチェンスカにとって3回目の御所への参内となった。10歳上の人生の先輩との親しい音楽の交流に、皇后さまはことのほか心弾ませておられたようだった。
その翌日の午後、怒濤の日本でのすべての行事を完璧に遂行したスレンチェンスカは、私の妹に付き添われて台北に向けて出発した。
その台湾では演奏や講演の要請が増えて、途中で病院へ救急で担ぎ込まれたくらい体調を崩しながらも、一か月の間にリサイタル3回、コンチェルト(ベートーヴェンの第3番)1回、レクチャー5回という老人虐待レベルの過酷なリクエストにすべて期待以上の成果を残し、6月1日に無事アメリカへ帰還した。
93歳のスレンチェンスカは、また一つ歴史に残る大冒険を成し遂げたのだ。