古典派からロマン派さらに近・現代に至る、偉大な伝統を受け継ぐ最後の巨匠
(出版社編集主幹、批評家)
2004年7月、一組のCDがクラシック界に大きな衝撃をもたらした。至高のピアニスト、ルース・スレンチェンスカ日本初のライブ・レコーディングである。しかもそのCDが、質量共に世界の音楽情報の発信地を誇る東京からでなく、岡山のプライヴェート・レーベル「Liu MAER」からリリースされたことは、二重の驚きであった。
ルース・スレンチェンスカの演奏が初めてスピーカーから流れてきたとき、その響きと人格とが綯い交ぜになった演奏の気高さに、思わず心が震えた。そして、ショパンのプレリュード(前作のCD-2)に、ラフマーニノフのタッチを見る思いがしたものである。筆者自身、ラフマーニノフの自作自演によるベストアルバムをコンピレーションしたことがあるだけに、”おやっ”と思った。しかし、ラフマーニノフのようなロシア人特有の泥臭さは無い。むしろ、ショパンのスコアに織り込まれている石灰質の淡い土の匂いがするとともに、洗練された演奏に心が和んだ。
ペートーヴェンの演奏(前作のCD-1)に至っては、構築感のある気品に溢れた古典派の解釈で、かつ飾り気の無い毅然とした演奏は、ライプツィヒの偉大なピアノ奏法を彷彿とさせ驚いたものである。
ルース・スレンチェンスカ女史は1925年生まれで、ラフマーニノフ、コルトー、シュナーベル、ホフマン、バックハウスなどの大巨匠に学び、ホロヴィッツと永年にわたり親交があったというではないか。それで合点がいった。今や伝説となるほど偉大なベートーヴェン弾きとして仰ぎ見られ、ライプツィヒのピアノ奏法の偉大な伝統を受け継ぐ最後の巨匠、バックハウスに学び、そのエッセンスを見事に消化しきったスレンチェンスカ女史ならではの演奏であったわけである。
スレンチェンスカ女史は最初、レシェティツキーの弟子であるケネディに師事していたという。レシェティツキーはリストと同様、チェルニーに師事し、アントーン・ルビンシテーインと並ぶ19世紀を代表するピアノ教師である。スレンチェンスカ女史が後に師事することになるアルトゥル・シュナーベルもレシェティツキーの最愛の弟子である。筆者はレシェティツキーがのこした僅か2曲の演奏記録を復刻したが、その特徴は、絹糸のように細く強靭でどこまでも染み通る艶のあるピアニッシモである。スレンチェンスカ女史の独特の質感を持つ音色や、ピアニッシモに見られる無限に続くような濃淡は、レシェティツキーの優れた弟子であったパデレフスキーやエリー・ナイ、モイセーイヴィチなどを凌ぐほどの系統を受け継いでいる。
筆者は今日まで、音楽事典の刊行や、昔の巨匠達の演奏を記録したピアノ・ロールや演奏録音の復刻および解説等、多くの出版や評論活動に携わってきた。その際、非常に興味深いことであるが、一昔前の音楽家は作曲家自身を含め、ほとんど楽譜どおりには演奏していないということである。
ルース・スレンチェンスカ女史の演奏は、楽譜の表面的な記述にとらわれていない。しかし、どの曲のどこのフレーズにも唯我独尊的な解釈はない。作曲家の意図と作品が生まれるまでのプロセスを慎重に推し量り、その一つ一つを伝え表現すべく細心の注意を払っていることがわかる。このことは、古典派からロマン派、そして近・現代に至る正統な音楽家の伝統を受け継ぐ稀有なピアニストであることを証明している。
スレンチェンスカ女史の、曲の解釈に取り組む妥協の無い姿勢は、7歳の時から7年間にわたり師事していた、アルフレッド・ドゥニ・コルトーの薫陶によるものが大きいであろう。当時のコルトーは、カザルス等の協力で自ら設立したエコール・ノルマルにおいて、今や伝説的ともなっている音楽解釈の講義に邁進していた時期である。ショパンの最後の弟子、エミール・ドゥコンブに師事していたコルトーであったが、ショパンだけでなくシューマンの解釈の鋭さは少女時代に培われたものである。
さらに彼女自身が最も影響を受けたのはラフマーニノフからだと言う。ラフマーニノフは演奏技巧と創作力を併せ持ち、ロマン派時代からの偉大な伝統を受け継いだ最後の巨匠である。彼のピアニズムは、近代ピアノの性能を存分に生かし、濃密でスケールが大きい。そのため、柔軟さと強靭さを兼ね備えた手首と腕が要求される。また、旋律の大家であったラフマーニノフの作品を演奏するには、息の長い旋律を歌い上げるピアニズムも要求される。彼女の限りなく深く大きなフレーズと威厳のあるフレージング、一音一音の揺るがぬ美しさと生き生きとして大胆なリズム。ラフマーニノフを彷彿とさせずにはおかない。
筆者の手元には、4つの異なる時期、1988年、2003年4月、2003年11月(前作)、2004年7月(今回のCD)に演奏されたスレンチェンスカ女史の録音がある。1988年の演奏は一流のピアニストによる普通の演奏でしかない。この十数年の間に何があったのだろう。驚異的な進化である。陰影感を秘めた演奏は驚異的な厚みを増している。さらに2003年4月以降の演奏も紛れも無く進化し続けている。スレンチェンスカ女史は現在79歳である。やがて80歳に手が届こうとするピアニストで、このように進化し続けた例がかつてあっただろうか。今回収録のモーツァルトを聴くと、さらに新たな心境に達したようである。
演奏に使用されているのは、三船文彰氏のギャラリー(劉生容記念館)に置いてある1926年製のスタインウェイであるが、回を重ねる毎にピアノの響きが心地よく深みを増している。正に、ピアノとの対話が深まっているとしか言いようがない。「音楽家にとっての最後の教師は楽器である」とはよく言われることであるが、スレンチェンスカ女史にとって、このスタインウェイとの出会いは、良き教師を得た思いであったのではなかろうか。
リストやブゾーニと並ぶロマン派の3大ピアニストの一人ホフマンや、ホロヴィッツ等多くの巨匠に師事、兄事し、彼等のエッセンスを消化するだけでなく、今や彼等を凌ぐほどの偉大な芸術を築き上げた正統的ピアニストの最後の生証人、ルース・スレンチェンスカ。
彼女の芸術を世に問うとともに、後世に残すべく尽力された三船文彰氏の快挙に喝采を贈る。
ルース・スレンチェンスカの芸術Ⅱ
- 録音
- 2004年7月17日、19日 劉生容記念館
- 使用ピアノ
- 劉生容記念館蔵 1926年製スタインウェイ
- 演奏
- ルース・スレンチェンスカ(ピアノ)
ラフマニノフ、コルトー、ホロヴィッツが賞賛した神童ルース・スレンチェンスカ。20世紀ピアノ演奏史の生き証人が、ピアニズムの最も進化した形をここに示す。巨匠ルース・スレンチェンスカ、79歳、2004年夏の熱い日本ライブ。