ルース・スレンチェンスカの芸術Ⅸ

楽曲紹介

三船文彰
ショスタコーヴィチ
24の前奏曲とフーガ 作品87より 第5番 ニ長調

1948年の「ジターノフ批判」でブルジョア的・形式主義的と指摘され、「社会主義リアリズム」に沿ったスタイルで作曲せざるを得なくなったショスタコーヴィチ(1906~75)は、1950年ライプチヒで催されたバッハ没後200年記念祭に招かれた折に、バッハの芸術の偉大さに触発されると同時に、記念コンクールの優勝者であるタチアーナ・ニコラーエワの魅力もおそらく原動力の一つとなって、この曲集を作曲した。初演はもちろんニコラーエワ。

バッハの音楽形式を意識しつつも、独創的な書法によって、ショスタコーヴィチの個性が曲に凝縮されている。「昔、夫(スレンチェンスカと同じ南イリノイ大学の政治学教授)がインドの大学の招きで教えに行った時、ついでにイランへ旅行したのですが、木陰でバラライカを弾いていた女性の姿と響きがこのニ長調の前奏曲の和音のアルぺッジョと重なるのを思い出しました。この年齢になると、演奏する曲が人生の様々な出来事と結びつくようになるのです。」(スレンチェンスカ)

J. S. バッハ
平均律クラヴィーア曲集第1巻より 前奏曲とフーガ 第5番 ニ長調

バッハ(1685~1750)は24曲のすべての調による「平均律クラヴィーア曲集」2巻(第1巻は1722年、第2巻は1742年)を書き残した。ベートーヴェンのピアノ・ソナタを「新約聖書」、バッハのこれらの曲集を「旧約聖書」と称すくらい、ピアノ演奏を学ぶ者にとって最重要な曲集の一つである。

第1巻は息子の教育用として書き始められたが、高度な対位法を駆使した傑作群となった。バッハのこの曲集に触発されて、ショパン、ラフマニノフ、ショスタコーヴィチの「前奏曲集」が生まれた。

ブラームス
3つの間奏曲(インテルメッツォ) 作品117

自身もピアノのヴィルトゥオーゾだったブラームス(1833~97)のピアノ曲は思いのほか少ない。ピアノ・ソナタ3曲はいずれも20歳前後の作品で、次の10年間にピアノの変奏曲や編曲10数曲ばかりが続いたあと、再びピアノの本格的な作品を書いたのはさらに20数年後の59歳の時だった。

もちろん、その間に作られた夥しい室内楽や歌曲には、ピアノが常に考え抜かれた形で作品の中心として存在してはいたが、その時代のブラームスの溢れる曲想と漲る創作意欲を表現するのには、ピアノ・ソロでは不十分だったとも考えられる。

1885年(52歳)から88年にかけて、「交響曲第4番」、「チェロ・ソナタ第2番」、「ヴァイオリン・ソナタ第2番、第3番」の傑作を書き上げ、90年「弦楽五重奏第2番」の完成後、ブラームスは急に創作力の衰えを自覚した。

91年には遺書まで作成したが、その年にクラリネット奏者ミュールフェルトの演奏に感激、新鮮な創作力が押し寄せるのを感じた。この年に生まれたのが「クラリネット三重奏」と「クラリネッ
ト五重奏」の2つの名作だった。

92年の夏、避暑地として亡くなる前の年まで滞在したイシュルで、20曲のピアノ小品集(作品116~119)が作られた。この年の前半に一番親しい友人エリザベート・フォン・ヘルツォーゲンベルクと姉エリーゼが相次いで死去。独身のブラームスには、人生の暮色深しという孤独感がいよいよ募ってきた。

一方では、それまでにシューマンのニ短調の交響曲の再版をめぐって、クララ・シューマン(すでに72歳)との間に生じていた友情の亀裂は、ブラームスが和解に歩み寄ったことで、この年にはもとの親しい関係を取り戻し、二人の人生の夕暮れに心静かな暖かい落日が差してきたのだった。

この年の諸々の人間関係の変化が、この珠玉のピアノ曲集の誕生に結びついたと考えられる。これらの曲に共通しているのは、ブラームスが人生において到達した澄み切った諦観ともいうべき心境の吐露であり、音符は簡素、精巧となり、技法はさらに洗練の度を増している。内面の感情の追及が、詩や文学と結び付いたロマン派の音楽が辿り着いた完璧な終着点となった。

「間奏曲」という呼び名は、シューマンが、ロマン的、幻想的でいくらか心が沈みがちなものに名付けたのが最初で、明確な言葉で曲の感情を説明できない場合に19世紀のドイツロマン派の作曲家たちが好んで「インテルメッツォ」というタイトルを使った。

「3つの間奏曲作品117」の第1曲は、詩人ヘルダーの「民俗歌曲」の中の「不幸な母親の子守歌」の中の二行の詩から曲想を得ている。「やさしく眠れ、わが子、やさしく美しく!私はおまえが泣くのを見るのがたまらない」

ブラームスはこの曲を「自分の苦悩の子守歌」と述べた。クララ・シューマンは1892年の10月にこの曲集の存在を知り、最期の年(1896年)まで折に触れて弾いていたという。

ブラームス
2つの狂詩曲(ラプソディ) 作品79

1879年、46歳のブラームスはこの年の夏に、素晴らしい森や山に恵まれた南オーストリアのヴェルター湖の避暑地ペルチャッハで、ヴァイオリン・ソナタ第1番「雨の歌」と2曲のラプソディを書き上げた。

ラプソディ(狂詩曲)というタイトルは、情熱的、劇的で自由な形式であるということで付けられたようだが、均整のとれた構成とエネルギーに満ちたスケールの大きさ、豊かな曲想と音色など、ピアノ一台で表現し得る世界がこの2曲に凝縮されている。

ベートーヴェン
ピアノ・ソナタ第17番 ニ短調 作品31-2「テンペスト」

ベートーヴェン(1770~1827)の32曲のピアノ・ソナタは、それぞれの時期の彼の人生と芸術の開拓(ピアノの改良発展も)を反映して、興味が尽きない。

1798年(28歳)頃から聴力の低下に伴って人間関係が悪化。1802年10月には、自分の堪えがたい心の傷を綴った「ハイリゲンシュタットの遺書」を書き残すまでになったが、それは同時に自分の芸術をさらに極めるという決心を新たにした一つの転換点にもなった。

「私は今までの作品に満足していない。今後は新しい道を進むつもりだ。」友人に宛てた手紙でそのように宣言している。

ちょうどこの時期に書かれたのが、作品31の3曲のピアノ・ソナタ(16番、17番、18番)。

作品31-2について、弟子のアントン・シンドラーがその意図を聞くと、ベートーヴェンが「シェイクスピアの『テンペスト』を読め」と答えたと伝えられたことで、この標題が付いた。

「数年前、写真家の友人とイタリアのポジターノに旅行したのですが、早朝にカプリ島の青の洞窟へ出かけた時に、足元のカニや壁にぶら下がった小動物など、あらゆる生命体の蠢く音が、私の『テンペスト』」のイメージと結びついたのです」と、スレンチェンスカは語っている。

ラフマニノフ
絵画的練習曲「音の絵」作品33より 第7曲 変ホ長調

ラフマニノフ(1873~1943)は練習曲を、作品33と作品39、計17曲を作曲した。

ヨーゼフ・ホフマンと並び、20世紀を代表するピアニストでもあるラフマニノフ(スレンチェンスカは10歳になる前にこの二人に師事している)のこれらの作品は、「前奏曲集」(さらに言えば、「チェロ・ソナタ」も)同様、おそらく大先輩ショパンの業績に触発され書かれたものと思われる。

もともとラフマニノフの作品は超絶技巧をベースに、詩的な情感、郷愁を呼び覚ます情景などを表すものがほとんどだが、特に色彩を音で表現することを心掛けたことはスレンチェンスカが語る次のエピソードにも表れている。

「私は1934年(9歳)と35年の夏、幸運にもラフマニノフにレッスンを受けたのですが、ある日私の演奏を聴いて、『あなたの音には色彩がない』と、彼が定宿にしていたヴィラ・マジェスティックの部屋の窓辺に私を連れて行き、こう言いました。「『パリの街のミモザの黄色い花のように、この和音を弾いてごらん!』」

わざわざタイトルに「絵画的」とか「音の絵」という注釈をつけたのは、ラフマニノフの芸術の本質からすれば蛇足のようにも思われる。

作品33-7はラフマニノフの他の曲同様、巨大な手と長い指でないと摑めない音型や和音と音の洪水の連続でロシア的な喜びの情感に満ち溢れている。手の小さいスレンチェンスカが大曲ぞろいのプログラムの終盤にこの曲を置いたのは、尊敬する師へのオマージュからであろう。

ショパン
練習曲 ハ短調 作品25-12

ショパン(1810~49)は練習曲を27曲作っている(作品10と作品25各12曲と「3つの新練習曲」)。作品10は1829~32年(19歳~22歳)、作品25は32~36年の作と推測されている。

ショパンの「練習曲集」はいわゆるピアニストの指の練習や教育用の練習曲としてではなく、メロディー、ハーモニー、リズム、情感の表現、つまりロマン派のピアノ曲の最高の要素を含んだものとして、ありふれた題名である「練習曲」に新しい生命を与え、唯一無二の世界を作り上げた。

この24曲は、体力や運動能力だけでは入山を許されない、真の芸術家のみが居住を認められる聖なる山への入山許可を得るための修練として、ショパンがピアニストたちに残した試金石のような存在と言えよう。

作品25-12は、両手で同時に繰り広げられる嵐にも似た3分間近いアルペッジョの連続で、全24曲の練習曲の締めくくりにふさわしい堂々たるスケールの大きさは、「大海原」と呼ばれる所以でもある。

6歳の時に、この練習曲をすべて弾かないと朝食を許されなかったことや、30代前半で世界に先駆けて27曲を全曲録音したことなど、ショパンの24曲の練習曲はスレンチェンスカにとって、もっとも思い出があり、人生と分ち難く結びついた曲であろう。2003年1月、台北で音楽評論家・曹永坤氏の自宅コンサートでスレンチェンスカが飛び入り演奏したのが、まさにこの作品25-12だった。そして、その演奏を私が聴いたことがきっかけとなって、スレンチェンスカの日本での15年間の信じがたい活動が始まったのだ。

▶ アンコール Encore

ショパン
ワルツ第7番 嬰ハ短調 作品64の2

19世紀ヨーロッパで大流行した「ワルツ」という踊りの形式を取りながら、ショパンは独創的な表現で魂の告白とも言うべき独自の「ワルツ」の
世界を作り出した。

第7番の哀しみを内包した旋律は、シューマンがショパンのワルツについて語った言葉を思い起こさせる。「これらの曲を聴いていると、ショパンは踊る人にほほえみかけているように見えながら、心の底ではもっと深刻なことを思っているのだということに気づくだろう」。

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Liu Mifune Art Ensemble Activities

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