北京の「アジア アート センター」にて、台湾の1950年代の抽象画家の作品を集めた展覧会「風林火山–東洋由来の抽象」が開催されました。その中で、劉生容の東洋と西洋の精神を癒合したオリジナリティ溢れる作品が中国の芸術界から耳目を集めました。
風林火山――東洋由来の抽象
「新・東洋精神」をベースの概念にシリーズ展開させた「風林火山――東洋由来の抽象」展は、アジアアートセンターが成し遂げた最新成果である。中国に生まれ、戦後台湾へ移り、台湾の近代美術史の発展に大いなる影響をもたらした作家たち―「五月画会」創設メンバーの李芳枝や重要な構成員だった陳庭詩、楊英風、馮鍾睿、莊喆、韓湘寧、「東宝画会」創始メンバーの李元佳および朱為白、李錫奇、「蘭洋画会」創始メンバーの王攀元―と、台湾に生まれ、後に日本で「自由美術協会」設立・発展させた作家の劉生容を一堂に束ねた本展は、台湾のアートシーンが伝統から今に至るまでの動的変遷と、その豊かな様相を体系的に研究・整理をしただけでなく、モダンアートと合わさった東洋文化の活力をも呈した。これはまさに「新・東洋精神」の再演繹ならぬ、ある種の探索である。また、イギリスのLYCファンデーションのバックアップを受け、李元佳が「台北期」に描き下ろした、水墨ならびに彩墨の重要作4点を拝借することが叶い、北京での初披露を果たし、「風林火山――東洋由来の抽象」展展は(2019年)12月1日まで展示された。
展示名の「風林火山」は、『孫子』・軍争篇第七で、軍隊の進退について書いた一文「疾(はや)きこと風の如く、徐(しず)かなること林の如く、侵掠(しんりゃく)すること火の如く、動かざること山の如く」から抜粋・引用したものであり、異なるスピードの動態イメージを表していると同時に、抽象画の筆致と構図における視覚的分析のメタファーでもある。西洋の芸術理論でいうHot AbstractとCold Abstractの二元的な区分のほか、東洋における弁証的な哲学、すなわち「動と静の融和」の中庸的思想により関心を注ぎ、11名にわたる作家たちの創作における図像、構図、筆さばき、マチエールなどを比較・整理することで、「動」と「静」の間に横たわる、無限の可能性に満ちた動態のスペクトルムを探し求めた。
造形要素自体で構成される抽象芸術は、20世紀初頭に西洋で新興し、国際的な芸術思潮の盛り上がりと共に、1930年代に入り中国でも、上海、広東の両地を中心に、若手芸術家によるモダニズムと名付けられた芸術運動が澎湃として起こったが、台湾の近代美術が1950年代以降花ひらくまで、抗日戦争の勃発を機に勢いはしばらく低迷した。特定の歴史的、社会的決定要因によって、やむを得ず中国から台湾へ居を移した作家たちは、西洋の美術思潮を受けながらも、独自の伝統である書道、写意画、脱俗的な超越性、禅宗美術、道教思想などを創作に取り入れたことで、台湾の抽象美術の形成や内在的ロジックに強烈な東洋哲学なるものを持たせた。
「離散と円通―馮鍾睿の芸術の旅」は、コーネル大学の潘安儀教授の監修・編纂のもと、2020年にアジアアートセンターより出版される新書であり、作家の馮鍾睿が歩んだ芸術の道を手掛かりに、台湾の抽象芸術の発展を体系的に振り返ってまとめただけでなく、本展の注釈的役割をも担っている。中国の美術史学者で、カルフォルニア大学サンディエゴ分校で美術史論と批評を専門に受け持つ、沈揆一教授が本書に寄せた序文ではこのように綴られている。「20世紀の1950年代から60年代にかけて起こった、台湾のモダニズム運動は、近代美術史に重要な一章を書き下ろした。……大きな志を持った青年たちは抽象芸術の旗を掲げ、伝統を内省し、保守的な芸術観念と体制に挑み、アジアの芸術と西洋美術の境界を打ち破り、モダンかつ中国的な表現スタイルをク見出していった。中国の(近代)美術史における、第二波モダニズムとして勃興したのである。」
革新的な台湾の芸術運動を牽引した「五月画会」「東方画会」のメンバーである王攀元、劉生容といった近代美術の先鋭たちは、戦後の台湾美術にみる近代絵画運動を推し進めた他、彼らの芸術成果は中国におけるモダニズムの観念形成と水墨画の更なる発展にも大きな影響をもたらした。
また、上記の作家たちの創作は、伝統美学や芸術観念の翻案もしくは解体というより、現代性という視座のもとで中国的な文化精神への回帰だったといえる。西洋文化に深い理解を持ちながらも、彼らは中国の伝統の未来性をはっきりと見据えていた。作品は民族文化の力強い層積を内包しつつ、同時に外に開かれている。この11名の作家は自身の芸術的実践を通して、古より伝わる東洋文明の理解を再演繹・再構築をしていたといえよう。東洋文化に潜在する真髄を掬い上げ、現代の言語をもって表現する「新・東洋精神」は、独自の審美と哲学を持つ。彼らの芸術への追求と探索は、中国の伝統文化にみる無限の発展性を同時代から未来へつなげる営みであり、それを全世界に表明したのである。
台湾60年代における抽象芸術・アジアアートセンター(北京)
「幼少期より、祖母から『焼金』にまつわる不思議な言い伝えを聴いて育ちました。焼却された金紙(冥紙)は、無に化したはずなのに、なぜ彼岸の冥界でまたお金になるのか? 子供心に不思議に思ったことであります。燃え盛る炎を眺めながら、焼却の束の間、これらの記憶が改めて脳裏をよぎり、わたしの心の中で新しい命のようなものが蠢くのを感じました。金紙に残り留まった色彩、黒く焼け焦げた跡のある縁辺、炎の色合いなど、これら全てがわたしの心を虜にしました。そして知らず知らずに、傷(焼)痕のある金紙を画面に貼り付けるといった、パッチワークのような制作スタイルを取り入れるようになりました。」劉生容(1928-1985)はかつてこのように自身の創作について言及している。
1928年に台南に生まれた劉生容(りゅう・せいよう)は、台湾人画家で叔父の劉啟祥の教えを受けて育った。1961年、日本を初めて訪れる。台湾で会得した独自の表現手法で、早くも日本の画壇の注目を集めた。1968年に日本へ居を移した後は、日本代表として国際コンペや展覧会にも意欲的に参加し、台湾と日本における抽象芸術の第一人者となった。
劉の前期の作品は、重厚な油彩と線からなるマチエールに加え、黒・赤・金といった色彩で、抽象という探索をしていたといえる。劉は楽理に造詣が深く、リズミカルな筆致を交差させることで、強い音楽的調和を感じさせる画面を表現している。また70年代に入り、創作スタイルは「儀式性」を重んじるようになり、焼き燃やした金紙を画面に貼り付けるなど、金銀紙といった道教にまつわる祭祀品を作品に転用させ、異なる絵画言語をもってこれら文化的符号に新たな命を付与した。独自の価値観と視覚的世界をつくりあげることに成功した劉の創作は、国外でも高い注目を集め、国境を越えて多くの鑑賞者に共有されていった。
参考資料:「方円のあいだー劉生容記念展」図録、1997年、台北市立美術館
展示名:風林火山――東洋由来の抽象
会場:アジアアートセンター(北京)
所在地:中国北京市朝陽区酒仙橋路2号大山子798芸術区(798東街)
会期:2019年10月19日~2019年12月1日
開放時間:10:00 am–6:30 pm(月曜休館)