小澤征爾氏のプロの指揮者人生のきっかけは実はルース先生との共演でした。
1964年、ルース先生がスーパースターとしての最盛期の38歳の年に、サンフランシスコ交響楽団の創立40周年記念演奏会で、ソ連の大作曲家ハチャトリアンの指揮でハチャトリアンの最新作のピアノ協奏曲を共演する予定だったのですが、直前になって、ハチャトリアンが国外に出られないこととなり、急遽探してきたのが、当時無名だった、ニューヨークフィルで助手指揮者をしていた小澤征爾氏でした。
すでに暗譜していたルース先生のピアノでリハーサルし、演奏は大成功を納めました。
因みに、演奏会の後半が後日小澤氏の十八番となった、ベルリオーズの「幻想交響曲」でした。
翌日のサンフランシスコの新聞にデカデカと「スター誕生」というタイトルで紹介され、後にサンフランシスコ交響楽団の指揮者となるきっかけを作りました。
実は2004年に松山の道後温泉の旅館で小澤氏と同じ宿になったことがあり、直接小澤氏に聞きました。
小澤征爾氏の自伝本の年譜に、ルース先生との共演が書かれてましたので、再度の確認で
「先生はルース·スレンチェンスカをご存知ですか?」
と、お訪ねしました。
「もちろんです!どうしてかって、私のデビューの共演ピアニストだったからですよ。しかも、それがぼくが正式にプロの楽団を振った最初の舞台だったのです。それでも、ルースさんはもうお年でしょう。」
と小澤氏。
「いえいえ、実は来年岡山シンフォニーホールで、私は彼女のラストコンサートを企画していまして、リスト、ショパンとチャイコフスキーのピアノ協奏曲を一晩で弾かれる予定です。小澤先生のデビューを飾ったルース先生の最後の演奏会を是非小澤先生の指揮で共演出来れば、最高の起承転結となりますが。」
「それがね、僕は駄目なんですよ。5年後までスケジュールが埋まっているので」
かくして、歴史に残るはずだった美談が泡と消えました。
2005年1月30日の岡山シンフォニーホールでのルース先生の3曲の協奏曲コンサートは、名ピアニスト、迫昭嘉の指揮で、1800名の県内外から駆けつけた聴衆が見守る中、大成功を納め、CDとしても歴史に残りました。
小澤征爾氏とルース先生の秘話の続きです。
実は、道後温泉の「ふなや」での奇遇の後、私は新聞の読者の応募抽選に当たり、京都コンサートホールで行われる「小澤塾」の指揮者セミナーを見学することになりました。
ルース先生との共演を小澤先生に直訴する機会が再度やって来たと喜んで、演奏会の企画資料、私が作ったルース先生の78歳からの4枚のCDや資料を携えて、その前の夜から京都へ行きました。
なんと、朝ホールに向かう地下鉄の中でまたもや小澤征爾氏と同じ車輌でした。
歩いてホールに向かう道中、実は私も斎藤秀雄先生の弟子であること、(小澤氏が最初の弟子、私が最後の弟子)怪しいものではないこと、ルース先生の事などを熱く喋り、資料もお渡ししましたが、その後何も起こりませんでした。
二度の奇遇がありながら、何も起こらなかった事は私の人生の中では珍しい事でしたが、ルース先生の芸術の進歩は関係なく今に続いた事を見れば、それで良かったのだと思います。
今振り返ってみれば、やはりルース先生が岡山の地で芸術を進歩させ続けるよう、神様が導いたのだと思います。
6歳から商業主義に利用され、40歳ですでに3500回というコンサートをしてきた人がきっぱり商業主義と訣別したのですから、
なまじっか「世界のオザワ」とラストコンサートでもしたら、それこそ東京の音楽事務所の目ざとい目に止まり、再び商業主義の毒牙にかかって、消耗品としてぼろぼろになったやもしれません。
それでも、ラストコンサートを聞かれたピアニストの岩崎淑先生が東京の関係者に演奏会の凄さを報告された事で、東京でも同じ内容のコンサートをやってくれませんか、という問い合わせがその後、私の所に来ました。
ルース先生にお伝えしましたら、私の一生の中で一番胸のすく言葉がかえって来ました。
「Too late!」
しかし、やはり岩崎淑先生のお知らせで、演奏会の後に、美智子皇后陛下に御所に呼ばれ、その後の美智子さまとの交流が始まりましたが。
それにしても、能力ある芸術家の芸術創造と商業主義の関係は、前々からますます大変な時代に突入していますが、今や、AIによって商業主義などもふっ飛ばされ、そもそも人間に創造する力と根気とチャンス、そして美的なものを味わう余裕が残されているのか、と考えるとこれからの人間は可哀想だと私は思います。
ルース先生のように90年間、一音ずつ、毎日メトロノームの50からピアノを練習する事は、もともと不可能ですが、ますます無意味に思える時代になりました。
だからこそ、私はルース先生と二人三脚で、自分の筋肉と頭脳と感性と霊感で、更に一瞬で消える音楽の最善を作る、という事をやり遂げたのも、太古から続いた人類の最後の姿を残したかったからです。
そして、それが奇跡の連続を生みました。