ルース・スレンチェンスカの芸術Ⅷ
─モーツァルト・ピアノ・ソナタ集
LIU-1014/15(国内盤CD2枚組)税込定価¥4400
- 録音
- 2017年8月1日 劉生容記念館
- 使用ピアノ
- 劉生容記念館蔵 1926年製スタインウェイ
- 演奏
- ルース・スレンチェンスカ(ピアノ)
92歳の奇蹟のピアニスト、モーツァルトのピアノソナタの通念を覆す驚異の演奏!
「老いは成長の始まり!」
2017年夏、岡山で信じがたい活動をした92歳の巨匠が人類の身体と芸術の進化の可能性をここに示す。
「老いは成長の始まり!」
2017年夏、岡山で信じがたい活動をした92歳の巨匠が人類の身体と芸術の進化の可能性をここに示す。
楽曲紹介
5歳の時最初に作曲したのが鍵盤楽器の曲だった天才ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト(1756~91)の本格的なクラヴィーアのためのソナタが、19歳になってようやく作られたことは少々驚きである。なぜなら、普通の作曲家なら「初期の音楽」と区分されるこの年齢において、早熟の天才モーツァルトは6歳から神童としてヨーロッパを演奏旅行し、各地で音楽の伝統や流行を身につけて、すでに円熟した作品を書いていたからである。そして、35歳の死の2年前まで、全18曲のピアノ・ソナタが各時代で書かれることとなる。
モーツァルトのピアノ・ソナタを論ずる時、まず考えておかなければいけないのは、彼が過ごした18世紀後半は、バロック時代以前から長く使われていたチェンバロが、ピアノフォルテに急速に主役の座を明け渡していった、鍵盤楽器が歴史の中でも転換期的な時代であったということだ。
第一期の6曲の「クラヴィーア・ソナタ」は、19歳の時1775年1~3月自作の「にせの女庭師」の初演でミュンヘン滞在中に一気に書き上げられた。これらの曲はピアノフォルテを想定して作られたかどうかは不明であるが、はっきりしているのは、モーツァルトが使用した楽器にはペダルがまだなかった、ということである。
モーツァルト(1756-1791)
ピアノ・ソナタ第3番変ロ長調
K.281現代のピアノでこの6曲を演奏するとき、ペダルの使用は議論の分かれる所であるが(テクニック上の困難という理由でペダルを使用するのは論外だが)、第3番(変ロ長調K.281)ではスレンチェンスカはペダルなしで演奏している。作品番号の若い順にハイドンの影響が強く見られるが、すぐにモーツァルトらしい工夫や試みが表れ、3番は全6曲の中でもっとも熟練した技巧と表現が必要で、モーツァルトも好んで演奏したと伝えられている。
しかし、この曲を唯一無二のものにしているのは第2楽章である。「アモローソ」(愛らしく)「with love!」(スレンチェンスカ)という標示は、モーツァルトの全作品を通してもこの楽章だけに与えられたもので、「右手と左手があたかも男の子と女の子の親密な語らいのようだ。」(スレンチェンスカ)」
~母親とのパリ旅行
1773年(17歳)から7年間の多くの時間を故郷のザルツブルクで過ごしたモーツァルトであるが、その間もモーツァルト親子は長期間の演奏旅行を強行し、ついに大司教の怒りを買い、宮廷から解雇され、仕方なく21歳の1777年9月に新天地と職を求めて、ミュンヘン、マンハイムを経ての一年あまりのパリへの旅に母親と出発した。
この旅は職探しがことごとく失敗しただけでなく、多大なる借金と翌年7月パリでの母親が死去するという惨憺たる結果に終わったが、音楽的な成果はむしろ豊かだった。
まずマンハイムに向かう途中、父親の生まれ故郷、アウグスブルクに立ち寄り、そこで鍵盤楽器の第一人者シュタインの工房でピアノフォルテを弾かせてもらい、その性能に驚嘆したことで、第2期とも言うべき3曲のソナタ(K.309、K.311、K.310)にその経験が生かされたことになる。
ピアノ・ソナタ第9番
イ短調 K.310
その中でも、全ピアノ・ソナタ集の中、唯一の短調の第9番(イ短調K.310)は、他のソナタでは類例を見ない切羽詰まった悲しみの情感を湛えた第1楽章と、闇の淵を覗くような孤独感漂う第3楽章は、母の死を見るという悲痛な経験が濃厚に投影されているとみるべきであろう(唯一の短調であるホ短調のヴァイオリン・ソナタが同じ1778年に作られているのは単なる偶然であろうか?)
ピアノ・ソナタ第11番
イ長調 K.331
第3楽章に「トルコ行進曲」があることで有名な第11番(イ長調K.331)は1783年の作(1778年説もある)。ウィーンに定住して2年、「後宮からの逃走」初演の成功、コンスタンツェとの結婚、演奏会の大成功など、順風満帆の生活を送っていたモーツァルトにふさわしい、一点の曇りもない晴朗端麗なメロディーに溢れたソナタ。
第1楽章は変奏曲形式を用い、第3楽章はトルコ風など、それまでのソナタの形式を超越する試みで、まさに無尽蔵に溢れてくるアイデアの赴くままに書かれた曲。
1783年はオスマントルコ軍によるウィーン包囲に勝利して100周年にもあたり、ウィーンで前から流行していたトルコ趣味の影響で、第3楽章にトルコ風の曲想が用いられたとも考えられる。「第3楽章のトルコマーチはウィーンではやっていたトルコの馬ショーを描写したものかもしれない」(スレンチェンスカ)。
ピアノ・ソナタ第17番
変ロ長調 K.570
死の2年前の1789年、33歳になったモーツァルトは経済状態が悪化、借金を重ね、まさに八方塞がりの日々の中で生み出された第17番(変ロ長調K.570)は、明朗、清楚、優しさを備えた魅力あふれる曲に仕上がっている。「第2楽章は新婚のカップルが一緒に歌う愛の歌、第1と第3楽章はうっとりと見つめ合いながら二人が踊る感じ」(スレンチェンスカ)。
ラフマニノフ(1873-1943)
13の前奏曲作品32より第5曲ト長調
10の前奏曲作品23より第6曲 変ホ長調
20世紀の最大のピアニストの一人で、独自の境地を開拓した大作曲家でもあったラフマニノフは、作品23の10曲、作品32の13曲、そして有名な作品3の2の前奏曲を作曲した。24曲が24の調性で書かれたことで、ショパンの「24の前奏曲」を意識して書かれたのは間違いない。9歳の時ラフマニノフの代役を務め、それによって唯一ラフマニノフの教えを受けたスレンチェンスカの語るラフマニノフについての思い出は、どんな音楽研究者の論文よりも貴重なものだ。
ルース・スレンチェンスカ(談)
1910年にこの作品が完成する前にラフマニノフはすでに3曲のピアノ協奏曲を完成させました。ラフマニノフの作曲の霊感は、人間同士の刺激よりも内在の感覚から来ています。例えば、一枚の素晴らしい絵を見たり、一篇の良い詩を読んだりすることで創作の意欲が湧き上るのです。なので、彼はいつもいろんな友人に詩集を送ってくれるよう頼んでいました。その中にエドガ・アラン・ポーの「The Bells鐘」がお気に入りで、それで1913年に合唱交響曲「鐘」(作品35)を書きました。この前奏曲も「鐘」からインスピレーションを得た作品だと思います。
1934年と1935年の夏、私は幸運にもラフマニノフにレッスンを受けたのですが、彼は、いつも夏はパリのヴィラ・マジェスティックを定宿にして毎日長時間の練習をしていました。その時私は彼の「ピアノ協奏曲第2番」に夢中で、弾きたくて仕方がなかったのですが、しかしまだ9歳の私の小さく力の足りない両手が転びながら鍵盤の上を行ったり来たりして演奏する様を見て、大爆笑し、ピアノの前に座って私に弾いて聴かせてくれ、本当の和音の音とはどういうものかを詳しく教えてくれたのです。
最後に彼は出来ればこの協奏曲を諦めて、このト長調の前奏曲を練習するよう勧めてくれましたが、私が「この曲はたった4ページしかないのに」と抗議したら、ラフマニノフは「一曲の短い前奏曲を書くのは協奏曲を作るよりも難しいですよ。なぜなら、簡潔な形式の中で音楽的に言いたいことを完璧に語らなくてはいけないのは至難のことですから。」と私に言いました。
ト長調の前奏曲は一幅の甘く感傷的な絵のようです。最後は高音のトリルで鐘の音のように穏やかに締めくくられます。この曲でラフマニノフはト長調とト短調の転換の最大の可能性を発揮しました。
ラフマニノフの演奏を聴いた人なら覚えているでしょうが、彼は演奏中絶対に笑顔を見せない人です。彼は技巧を見せびらかすことや、伝統や個人の好みで演奏することはしません。あくまでも音楽的な要求に従って、自分のために演奏しているかのようです。
「私が音楽創作するのは自分の感覚を表現するためです。ちょうど私がしゃべるのは私の考えを表すのと同じことです」、とラフマニノフが書いています。
(訳:三船文彰)