2004年夏
超人ピアニスト ルース・スレンチェンスカ79歳の熱い挑戦
‐あるユートピアの記録‐【前半】
このCDはルース・スレンチェンスカの日本におけるライブ・レコーディングの第2弾であるが、2004年7月に日本での初CDを世に出してから、半年足らずで、このような運びになるとは、私もそして恐らくルース先生本人も夢にも思わなかったことだろう。
実はこういうことがあったのだ。昨年11月の2回目の岡山公演のため10日間ご滞在の間のある午後、協奏曲を演奏していただく予定の岡山シンフォニーホールの1階にあるCDショップへお連れした時のこと。
CDショップの担当者は4月の初来日以来、熱烈なルース・ファンとなり、愛好者の便宜をはかるため、アメリカから彼女の現在入手可能な3枚のCDを輸入し、店のピアニストのコーナーの目立つ所に並べていたのだが、それをルース先生に見て欲しかったのだ。もちろん彼女はびっくりして、声を上げてよろこんだのだが、その時ふと隣の棚を見ると、「シュナーベル」「バックハウス」「ラフマニノフ」の全集が数十枚ずつ並べれあるではないか!「My teachers!」と彼女はさらに大きな声で叫んだ。−この巨匠たちすべてに彼女は7歳の頃から師事していたのだ!
もちろんルース・スレンチェンスカのこれまでのレコードをリバイバルしたら、同じくらいの数のCDが全集としてそこに並んでいることだろうが、なつかしいような、羨ましいような眼差しで眺めている先生に私が「先生、このコーナーにまたたく間に先生のCDが少なくとも10枚並ぶようにしましょう!」と申し上げた。しかし、その時、このふと自分の口から出てきた言葉に、実は私は何の展望も確信も持っていなかった。恐らく先生もそうだったと思う。
その時からわずか1年、日本での6枚の新しいライブ・レコーディングと昔の3枚を加えると、なんとすでに9枚のルース・スレンチェンスカのCDがあのコーナーに並んでいるではないか!
確かに、シロウトが個人のレーベルを立ち上げてまで、ある演奏家のCDを作ること自体とんでもないことである。ましてやその演奏家が伝説的な巨匠となると、ほとんどの方の反応は「???」となってしまうのも当然のことだろう。
ルース・スレンチェンスカとの出会いから昨年2回の日本公演、CD発売に至る一連のエピソードは「ルース・スレンチェンスカの芸術Ⅰ」のCD解説書にある程度記述したが、今の私がさらに言えることは、すべてはご縁からもたらされた、ということだけだ。
個人が作ったCDであっても世に広く出す以上、なるべく制作者の私的な痕跡を残さないのが望ましいと考えたが、これらの演奏記録は紛れもなく、ルース・スレンチェンスカという一人のピアニストと一人の歯科医が、芸術に対する共通の理解とお互いの心意気の交換から生まれたものであり、何より彼女が「75歳の時、主人をなくしてから3年間ピアノを弾くのをやめてしまったが、77歳の時もう一度ピアノを弾いたら、これまでとまったく違う音が出るようになった。いまが私の演奏人生の最善の状態なので、私はそれを後世に残したい!」とおっしゃった一言が、私にどんな困難があっても、一枚でも多く彼女の演奏記録を残していきたい、という決心をさせた最大の理由だったのだ。
今年の三度目となる再来日の計画も、実は昨年11月彼女がニューヨークへお帰りになった直後から打診をつづけていたのだが、やはりアメリカのニューヨークから日本の岡山までの長い旅は、79歳の老人にとっては足の竦む思いがあったのだろう、なかなか進展しなかった。
その間、今年の4月に、岡山県の落合町にある樹齢千年以上の満開の醍醐桜とじっくり対面する機会を得たのだが、山頂で一本だけ青空に向かって聳え立つ大桜の幹と花から発するオーラにただただ茫然と座り込んで、ライトアップの夜中まで5時間も見つづけた。その時、家内がふと「醍醐桜がルース先生に見えてきた。花びらの一枚一枚が先生の奏でる音符のようだ!」と感嘆のため息をもらした。
79年と千年の差があるが、昨年から聴きつづけてきたルース先生の音楽、見つづけてきた彼女の人柄が、風雪に耐えてなおかつ華を咲かしつづける醍醐桜とオーバーラップするのも当然だと私も納得した。そのことをさっそく先生に報告したところ、まもなく手紙が届いた−「7月中旬頃、岡山へ演奏に行きたい」と。
このようにして、ルース・スレンチェンスカの第3回来日公演が実現する運びとなった。そして2週間後に、とてつもなくハードな2つのプログラムが輸送されてきた。手紙に次のような添え書きがしてあった。−−「Aプログラムは、私が昨年アメリカに帰ってきてから、2,3ヵ所で演奏したシューマンの「謝肉祭」がメインですが、他にもやや意外と思われるような曲を組合わせてみました。コープランドの曲は非常にめずらしい曲です。彼にも直接会ったことがあるし、この夏にふさわしい曲ですよ。Bプログラムは、実はあなたの手紙を受け取ってから考えたものですが、昨年、岡山であなたが送別会をして下さった時にラフマニノフのチェロ・ソナタやカザルスが弾いてらした「鳥の歌」を演奏して下さったのを思い出して、私が10歳の頃、コルトー先生のお宅でレッスンを受けた時、時々そこでカザルス・トリオ(ヴァイオリンがティボー)の練習の譜めくりをしたものですが、その時、カザルスがよく「モーツァルトはショパンのように、ショパンはモーツァルトのように弾かなくてはいけない」とおっしゃていたのが脳裏に甦ってきて、そこでショパンとモーツァルトだけのプログラムを組みこんでみたのです。気に入って下さるとうれしいのですが…」
しかし、その時点で、私はルース先生のプログラミングの意図など、実は考える余裕はなかった。夏の一番の猛暑の時期に、私の小さいホールで録音をする場合、エアコンの音をシャットアウトするために冷房を止めなくてはいけないので、サウナ状態の部屋でルース先生がこの2つのすさまじいプログラムと格闘している姿(そればかりでなく、調律の弘中氏、録音の吉岡、大谷両氏が炎天下で奔走している姿も!−−録音室はホールの隣の私の自宅の一室に設けてあるのだが、演奏の場所まではホールの屋上から3階分の階段を登り降りしなくてはいけないのだ!)をそれこそ冷汗を流さんばかりに想像していた。
最悪の演奏環境で最善の芸術創造をはたして、79歳の老人が成し遂げれるのだろうか?夏が近づくにつれて、私の心配はますます膨らんでいった。
そして、いよいよ7月9日、ルース・スレンチェンスカがニューヨークから成田空港に到着する日がきた。
税関の出口で今かいまかと待つ我々の前に、数個の積み重なった大きいトランクがひとりでに進んできた、と思った次の瞬間、トランクより背の低いルース先生がその後ろで押しているのが見えた。私は申し訳なさの念で胸が一杯になった。−−私の力不足で、アメリカまで出迎えにいけないばかりに、79歳の巨匠がニューヨークの27階のマンションの部屋から一人で大きな荷物をかかえて空港へ行き、遠路はるばる日本まできてくれたのだ。
ほとんど同時に、ルース先生もわれわれを見つけると、通路の途中で止まって、一番上のトランクを開けて、お酒の瓶を取り出して、私に見せながら、30時間の長旅の疲れを感じさせない大きな声で叫んだ「あなたに会ったら、真っ先に渡そうと思って、ニューヨークから持ってきたシャンパンよ!」
東京に到着した翌日から、昨年以来旧知の仲となったピアニスト岩崎淑さんのお宅でのハウスコンサート&レクチャー、翌々日は東京の2つのCDショップでミニ・コンサート&サイン会(東京の音楽愛好者にとっては最初で恐らく最後となるルース・スレンチャンスカの実演に接せられたチャンスだったが)、その合間に雑誌の取材…と、昨年よりかなりハードなスケジュールをこなされた。
ルース・スレンチェンスカの超人的なパワーは昨年にも勝るとも劣らなかった。東京に到着したのが夕方だったが、翌日朝9時には練習を開始した。そういう事態をも想定して、実は事前に東京都内にある家内の実家の古いピアノを調律して用意していたのだが、4時間の朝の練習が一段落した時、私はピアノのことを先生に詫びた。先生は「今日はいつも弾いているスタインウェイとかベーゼンドルファのピアノではなっかたらこそ、私は長年得られなかったモーツァルトのピアノ・ソナタについての2つの新しいアイデアを、このピアノの練習を通じて手に入れることができたので、とてもラッキーでしたよ!」と笑いながら答えた。そして「どんなピアノでも、私は常にそのピアノの向こうから響いてくる音を注意深く聞き取ろうとします。ピアノが語ろうとしていることに耳を傾けながらピアニストは表現を変化させられなくてはいけない。弾きなれたピアノしか演奏しないのはよくない。何事も間口を広げていかなくては、芸術に新しい発見は生まれない」とつけ加えた。
東京での2日間、結局5台のピアノで計10時間の練習や一連のミニ・コンサートを終えたルース先生の手を引いて、岡山へ向かうため夕方の銀座の雑踏の中を駅へ歩いていく時、ふと私は太古から甦ってきた、絶滅と思われていたティラノザウルスを連れて歩いているような錯覚に襲われたくらい、またまたルース・スレンチェンスカのすごさを見せつけられた。
(以下 2004年夏 超人ピアニスト ルース・スレンチェンスカ79歳の熱い挑戦 − あるユートピアの記録‐【後半】につづく)
ルース・スレンチェンスカの芸術Ⅱ
- 録音
- 2004年7月17日、19日 劉生容記念館
- 使用ピアノ
- 劉生容記念館蔵 1926年製スタインウェイ
- 演奏
- ルース・スレンチェンスカ(ピアノ)
ラフマニノフ、コルトー、ホロヴィッツが賞賛した神童ルース・スレンチェンスカ。20世紀ピアノ演奏史の生き証人が、ピアニズムの最も進化した形をここに示す。巨匠ルース・スレンチェンスカ、79歳、2004年夏の熱い日本ライブ。