2004年夏
超人ピアニスト ルース・スレンチェンスカ79歳の熱い挑戦
‐あるユートピアの記録‐【後半】
2004年7月のルース・スレンチェンスカ第3回日本演奏のスケジュールは、ニューヨークから岡山へ向かう途中下車の東京で、予想外の一連の超ハードな活動で幕を開けた。
東京での2日間の数時間の公開演奏は、東京の音楽愛好家にとっては、ルース・スレンチェンスカの演奏を目撃した最初で最後の機会となった。
分刻みのスケジュールを終え、岡山へ向かう最終の新幹線に乗り込んで、小さな体を席に沈めたとほとんど同時に寝息を立てて寝入ってしまったルース先生の横顔を眺めながら、この身長150cmにも満たない老婦人のどこからこれほどのエネルギーが湧き出してくるのか、さらなる感慨に耽った。
岡山に到着した翌日の朝9時から2週間に及ぶルース・スレンチェンスカのチャレンジがスタートした。
案の定、私の小さいホールでの1回8時間の練習はかなりの過酷な状態となった。夏と冬の使用を想定していない建物の内部の温度は軒並み30℃以上になっていたからだ。その上用意された二つのプログラムの内容は質、量ともに尋常ではなかった。−−つまりほとんどのピアニストが拒否するであろう条件が揃っていた。
コンサートが始まるまでの6日間の毎日は、朝8時45分にホテルへ先生を迎えに行くことから始まった。9時きっかりにピアノの前に座るのが先生の希望だったからだ。彼女はいつも私の車を見つけると待ちかねたようにロビーから出てきた。ある日、5分ほど遅れたことがあった。急いでホテルのロビーに駆け込むと、ホテルのスタッフ数人がルース先生を取り囲んで片言の英語でなにやら話しをしているのが見えた。どうもタクシーを頼んでもらって、自分で私の家へ行こうとしたらしい。
車の中で先生が「私は一刻も早くピアノの前に座ってピアノを弾きたいのよ。ニューヨークのマンションでは朝10時からしか音を出してはいけないことになっているから、私はいつもその2時間前からピアノの前に座って、楽譜を読んだり、音を出さないように鍵盤の上で指を動かしたり、そして10時きっかりにピアノの音を出すのよ。」とおっしゃった。私の顔から冷汗が流れた。
翌日から15分早くホテルへ向かうことにしたが、すでに先生は楽譜のカバンを手を持ってロビーで立っていた。
「私たち二人の老婦人(old lady)はいい友達となりました」と先生が再開を心待ちにしたわが家のスタインウェイ(先生より一才年下!)はもちろん事前から弘中氏によって万全に調整してあった。私の父が残した、宇宙を思わせる抽象画に囲まれた、外界と隔絶したこの空間で、一日中ルース先生のピアノの音に耳を傾けるという、私たち家族にとって、まさに信じられないような幸運の日々が始まった。
数日後、台北から私の弟家族、そしてパリから私の妹とその長女が岡山に到着した。昨年から台北とパリでそれぞれの家族と親しい時間を過ごした先生は再会をとても喜んだ。
ここで家族7人でルース・スレンチェンスカのチャレンジをサポートする体制が整った。
今から思えば、それはあたかも1日何回もレースに出馬する名馬をケアする雰囲気に似ていた。
先生が練習したり、レコーディングをしている間は全員息をつめてそばで待機し見守り、曲が一段落して休みに少しでも入ると、お茶を差し出す者、果物を用意する者、うちはを扇ぐもの、パリからきた妹親子はフランス語堪能の先生に話しかけて、少しでも先生の気分をリラックスするようつとめたりと、目的はただ一つ−−次のレースも一等で走れるように−−次の曲も先生の能力の最大限の力が発揮できるように−−名馬を再びスタートのゲートについてもらうということだけのために。
しかし、それはまさに競馬のレースに譬えてもおかしくないものだった。ルース先生自身が馬でもあり、ピアノが馬で、ルース先生が騎手でもあった。
一曲をミスなく、すべてが破綻のない状態で弾けてやっと五、六着以内の位置につけることができる、そしてこれまでのすべてのピアニストの解釈の上を行く何かが音になってやっと2着まで上がれる。最後に作曲家自身でも気が付かない世界をその曲から再創造できて、やっと1着。そういう「レース」をルース先生が日に何回も走り、そして勝ち続けた。われわれ「馬」をケアするスタッフがいやが上でもさらに力が入る、というものだった。
「この夏の私は昨年の秋の岡山での私よりもさらに進歩しています!」というルース先生のお言葉通り、恐ろしいことに79歳半の彼女の指のスピード、強さ、しなやかさは確かに昨年よりもパワーアップしている。
忘れてはいけないのは、ルース・スレンチェンスカは4歳からずっと現役のピアニストであったが、75歳の時に最愛の夫が亡くなってから3年間ピアノを弾かなかった、ということだ。77歳の時、台湾人の教え子が台北の大学の教授に招聘してから鍵盤に復帰し、そして、いまや75歳以前の状態を取り戻しただけでなく、さらに進化した境地に到達したことは驚くべきことである。
「ピアノを弾かなかった3年間の間に、私は多くのことを感じ、考え、そして多くのことを学んだ。再びピアノを弾いた時、音がまったく変わったのよ。」「正しく練習すれば、人間の筋肉は衰えないものです。昨年秋の演奏に私は満足していなかったから、ニューヨークに戻ってから、毎日の練習時間をさらに2時間増やして(つまり9〜10時間)備えてきたから、いまや私は別人よ!」とルース先生はいたずらっぽく続けた。
しかし、先生のテクニックもさることながら、私が一番感心したのは、どの曲も「まさにこれだ!」と唸らせる解釈でありながら、よく考えてみると、どれもこれまで聴いたことのない歌いまわしであるということだ。作曲家の代弁者である以上に、楽譜はもはやルース・スレンチェンスカにとっては単なる彼女が創造するための一つの素材でしかないように思える。極端な言い方をすれば、シューマンでも、ショパンでも、モーツァルトでも、彼女が弾く自分の曲に感心するのではないかと思えるほどだった。同じピアニストとして、ルース・スレンチェンスカは彼らの2倍以上をさらに生きて、テクニックを鍛錬し、極めてきただけでなく、やはり創造において彼女もまた天才だからだと思う。
それにしても、真夏の室温30度の部屋のなかで、79歳の小柄な老婦人が一日8時間以上も全力でピアノを弾くことは、あまりにも過酷すぎることであった。 「どうしてこれほどハードなことをなさるのか?」という私の質問に、先生は即座に「いまが私の一生の中で最善の状態だから、最高のものを後世に残したい!」と答えた。−−「名馬」をお世話するわれわれ「スタッフ」の力がさらに入ったのは言うまでもないことだった。
いよいよ4回のリサイタルの初日が始まった。録音のため空調を止めた、60名ほどの聴衆で一杯となった小ホールは、サウナの中のような暑さとなった。座っているだけで、汗が滝のように流れた。私が数ヶ月前から恐れていた、最高の演奏を引き出すのを妨げる最悪の条件が私の想像以上の状態でそこにあった。
しかし私の心配は杞憂に終った。暖かい聴衆に囲まれた中でのルース・スレンチェンスカの演奏はさらに生き生きと、インスピレーションに満ちたものとなった。
巨匠の底知れぬ力を思い知らされた。
それでもリサイタル3回目の前半終了後、先生の部屋へ行き、「今日も素晴らしかった」と申しあげたら、先生が頭を横に振って、「たくさん演奏してきたから、よくない日もあるわ」と溜息をもらした。見るとくやしさで眼に涙を溜めていた。あとで妹から聞いたら、小さい頃から弾いているモーツァルトのソナタの出来に不満だったらしいことがわかった。
いよいよ疲れがピークに達したか、と誰もが思った。
翌朝恐るおそる先生のお顔を拝見すると、前夜の疲れや落胆のあとは微塵もなく、むしろ闘志で輝いていた。朝の練習と午後の4時間近いレコーディングをいつものようにこなし、そして夜の最後の演奏会は、どの曲もその2週間の中で最高の出来となった。
先生のチャレンジの一部始終を目撃してきた私たち全員の眼に涙が溢れた。
真の巨匠の創造といものは、どの瞬間においても歴史を刻んでいくものだ、ということを知った。 そして、この隔絶された空間の中で、巨匠がピュアな情熱を持って、最善の芸術を創造していく過程をつぶさに見聞きし、サポートし、共感し、体と心のすみずみまで吸収できたことはユートピアでなくて、なんであろう!
昨年(2003年)の1月台北でルース・スレンチェンスカの弾く、1曲のショパンのエチュードに打たれてから、一連のご縁によって岡山の地において先生の芸術の追及にいささかの力を尽くせたことは私の一生の誇りであるが、実はやや不思議なこともあったのだ。
昨年の3月、先生に直談判しに台北へ行き、4月の初来日の許しをとりつけたあと、先生からプログラムが送られてきた。あろうことか、その時まだこれほどの巨匠とは知らなかった私が、彼女の曲目に注文をつけたのだ。「ベートヴェンの『ワルトシュタイン』ソナタで演奏会をスタートするのは少し唐突すぎると思うから、ラフマニノフの前奏曲作品32-5でスタートして、この恐らく最初で最後となる先生の日本の演奏会の最後にシューマンの『献呈』を弾いてほしい」とお願いしたのだ。
先生はそれについては何もおっしゃらなかったが、しかし本番ではちゃんと私の希望通り演奏してくれた。それには感涙したものだったが、今年になって、台北の弟から、ニューヨークに居る先生に電話した際、実は私がリクエストしたラフマニノフの曲は、先生がご主人様の葬儀の時に、主人の魂が安らかに天国に行けるようにと演奏し、シューマンの「献呈」は、演奏を再開してから満足した演奏会のアンコールに、演奏を天から力を貸してくれたご主人様に感謝する意味で弾くのだということを知らされた。
私が何も知らずにルース先生の大切にしている曲を注文したことで、恐らく彼女も何らかのご縁を感じて下さったのだろうか。
そして、この夏の一連の演奏活動が終って、岡山の近くの直島へ、先生を海水浴へお連れするのに、「その前に1時間ピアノの練習をしたい」ということで、ホールにお連れした時、たまたま岡山のラジオ局で私がルース・スレンチェンスカを紹介する番組が車のラジオから流れてきた。それがなんと私が番組の最後にぜひリスナーに聞いてほしいと、流した先生の演奏したシューマンの「献呈」だったのだ。 私は車を止め、先生と二人で曲の最後まで耳を傾けた。「主人はいまここに居ないが、彼はきっと非常に喜んでいることでしょう」と先生が微笑んで言った。
いよいよ成田空港へ先生をお連れし、お見送りする日が来た。
私は最後に「先生はご自身の波乱万丈の一生をどう思われますか?」と先生に尋ねた。
「私は過去には一切興味がない。私が関心を持っているのは将来のことだけです。」これがルース先生が私に残した最後の言葉だった。
そして1ヶ月後、私が企画した2005年1月の先生の80歳記念コンサートのための、さらに驚異的なプログラムがルース先生から送られてきた。
「いまの私、そして明日の私が一番いいのだから、いまの私の演奏を聴いてほしい。」というルース先生のメッセージがその中に込められているように思った。
2005年1月のラストコンサートがどのような歴史をさらに作っていくのか。多くの方がルース・スレンチェンスカのユートピアを共有できることを祈ってやまない。
ルース・スレンチェンスカの芸術Ⅲ
- 録音
- 2004年7月21日、22日 劉生容記念館
- 使用ピアノ
- 劉生容記念館蔵 1926年製スタインウェイ
- 演奏
- ルース・スレンチェンスカ(ピアノ)
モーツァルトはショパンのように弾くべきだ」
10歳の時、師のコルトーの家でカザルス・トリオとブラームスの三重奏曲を演奏したこともあるルース・スレンチェンスカ、79歳にしてカザルスのこの言葉の真髄を鮮烈に示す。