2005年1月
超人ピアニスト ルース・スレンチェンスカ最後の挑戦
ラスト・ショパン・リサイタル
この2枚のCDが伝説的なピアニスト、ルース・スレンチェンスカ(※本当は「伝説的」でもなんでもなく、ルース・スレンチェンスカはずっとピンピンしていたし、ただ彼女の取り組みを私達が知らなかっただけのことだが…)の最後のライブ・レコーディングとなってしまった。
ルース・スレンチェンスカの辿ってきた尋常ではない、波瀾万丈のこれまでの人生を知る者は、彼女の演奏生涯の締めくくりの鮮やかさとすごさに心を打たれるに違いない。
しかし、すべてが終った今となって、私はルース・スレンチェンスカの人生の起承転結の結びの段階のおそらく一番重要な時期に起こった、いろいろな不思議なエピソードに立ち会ったことによって、さらにその中を貫く一筋の力を見出したような気がする。−最高のピアニストが埋没することなく、彼女の最善の芸術が後世に残るよう働いた力を!
舞台裏の覗き窓からルース・スレンチェンスカが人生最後のコンサートの最後の曲、ショパンのバラード第4番を演奏するのを見守りながら、この稀有な女性の一生が走馬灯のように私の脳裏を駆け巡った。
音に対する早熟な反応と3歳の時に感じたピアノへの運命的な愛情がもたらした結果が、異常な性格を持ったヴァイオリニストである父親の虐待とも言える、スパルタ教育の日々だった。
4歳でリサイタルを開き、「モーツァルト以来最も輝かしい神童」と称賛され、ホフマン、コルトー、シュナーベル、ペトリ、ラフマニノフなどの巨匠に認められ、教えを受けたが、自分の心の中では、所詮すべては一日9時間の、父親の暴力を受けながらの成果に過ぎないと思い続けた。
破局はついに15歳の時にやってくる。「機械的」、「未熟」という「的を得た」新聞の酷評が、しかし「神童」という耐えがたい仮面を壊す手助けをした。同時に、絶対的な暴君として自分を支配続けてきた父親に「No!」と言えるきっかけにもなった。
一家の稼ぎ頭から一挙に役立たずの負け犬に転落。ずっと平凡な普通の家庭の娘として暮らしたかったのに、ピアノを愛してしまったばかりに、子供らしい日常を取り上げられてしまった。家族や外の人たちとの間には異星人ほどの違和感を感じた。
茫然自失の2年ののち、自分の力でカリフォルニア大学の入試に合格(「おまえが受かるはずがない!」と父親が罵った)。自分の力で生きよう、他の同じ年代の若者と同じように青春を送ろうと努力した。
あらゆるアルバイトもした‐ウェイトレス、ファッション雑誌のモデル(「ただしスモール・サイズ専門のね!」と身長147cmのルース先生が付け加えた)、ベビーシッター(それも「ピアノを持っている家だけ!」を選んで働いた)などなど。ピアノを忘れようと努めた。
しかし、今度はピアノの方から彼女に働きかけてきた。大学の音楽科の教授のアシスタントとして、演奏のアルバイト(教授が授業中にリクエストしたあらゆる曲のどの部分でも譜面なしに弾けた!)をしたり、修道院の経営する音楽学校で教師として生きがいを感じていた矢先に、再び見出された。
ステージにカムバックするのに、それでもまだかなりの時間を要した。それくらい、15歳の時の新聞の酷評が与えた心のダメージが大きかった。
バッハ・フェスティバルに登場した10年ぶりの演奏が大きな反響を呼び、アルトゥール・ルービンシュタインやアーサー・フィードラーなどの大先輩の暖かい励ましもあって、本格的に演奏家として、また多忙な生活を送ることとなるが、まだ自分の音楽の存在意義が見出せないでいた。
決定的な転機が第2次世界大戦のあとのヨーロッパ演奏旅行の時に訪れた。まだ瓦礫の山の廃墟と化していたケルンの町の崩れかかったホールでリハーサルしていた時に、抗し難い力の前ではまったく無意味に思える自分のピアノの音でも、心身ともに疲れ、傷ついた人々の心に何かの力になれるのではないかと考えた。その途端、指から流れ出た音が、これまで感じたことのないような自由で美しい愛に満ちたものとなった。
悲しみに打ちひしがれた聴衆が粗末な椅子から立ち上がって拍手してくれたのを見て、芸術家としての使命の自覚に目覚めた。自分のピアノの音によって、聴衆との間に深い繋がりが出来たのを感じた。
ピアノは自分の人生の中で一番大事な友人で、かつてないくらい自分と一心同体のものであり、ピアノとなら、望まれれば、いつでもその人にエネルギーを与えることができることに気がついた。そして、ピアノさえあれば、未来は必ず自分の手で切り開いて行けると確信した。
それから10数年、まさに破竹の勢い。最大限の賛辞を捧げられ、世界中を演奏して回った‐‐ロシアと日本以外。いくらでも演奏会をこなす力があるように思えた。しかし、38歳の時、過労で胃潰瘍となり、「一年間休むか、死か」と医者に宣告された。
人生2回目の演奏中止。
そのあと、殺人的な興行としての演奏活動に見切りをつけて、サウス・イリノイ大学で教鞭を取る道を選んだ。
40代半ばに、7歳年下のジェームズ・カー教授にプロポーズされ、ついに人生の中で一番縁遠かった幸せな家庭生活を手に入れた。
ハンサムでスポーツマンでやさしく、知的な旦那様との夢のような生活が30年も続いた。「ピアニストや教授としての前に、私はいい奥さんになろうと努力した。」「三食きちっとおいしい食事を作った。」「毎日、主人に朝食を食べさせて、学校に送り出してから、自分の仕度をして学校に行ったものよ。」「あの人くらい素敵な男性を見たことがない!」ご主人様の話になると、決まってルース先生はビッグ・スマイルになった。
サウス・イリノイ大学で世界中から集まってきた若いピアニストを育て、慕われた。そして膨大なレパートリーに学問的な裏付けを積み重ね、さらに深く掘り下げていった。これぞ、という自分が決めた演奏会は続けていた。
74歳の時、また転機が訪れた。病で倒れた主人の看病と死別。ピアノに触れる時間がなかった。そしてお葬式のあとも、ピアノに触れるのをやめてしまった。 先生の大変な落ち込みようを心配した台湾の教え子が、台北に誘った。台湾の大学で客員教授として教えながら、みんなで先生の面倒を見て差し上げましょう、と。
完璧主義の先生は、学生のレッスンの前には必ず数時間、指のウォーミングアップをして宿舎を出た。指の力が少しずつ戻った。その時、ピアノの音がこれまでの自分の音とまったく違う音になったことに気がついた。そして、演奏会の依頼が口コミでまたたく間に増えていった。
ルース・スレンチェンスカは台湾の人々の敬愛するピアニストとなった。
その5ヶ月後の2003年1月に、台北で私は先生の弾く一曲のショパンのエチュードに打たれることによって、日本での初演奏が実現した。
いつの間にか、ルース・スレンチェンスカの人生の起承転結が結びのかどを回っていた。
そのあと、日本の岡山で起こった一連の展開は「ルース・スレンチェンスカの芸術(Ⅰ、Ⅱ、Ⅲ)」のCDの解説書に記述した通りだが、桜満開の2003年4月、紅葉の11月、酷暑の2004年7月、そして酷寒の2005年1月と、計らずも ちょうど日本の春夏秋冬のそれぞれの真っ盛りの時に4回も日本を訪れたことになる。
このことはルース先生がラスト・コンサートのプログラムを組み立てる上で一つのきっかけになったと思う。
ショパンが人生の(わずか39歳の!)それぞれの時期に作ったちょうど4曲ずつのスケルツォとバラードは、ショパンの人生の春夏秋冬を表していると考えた時、ルース・スレンチェンスカが自分の人生をそれらの曲に重ね合わせ、何かのメッセージを残したいと考えたとしても不思議ではない。何よりも、彼女の体はショパンと同じポーランドの血が流れているのだから!(なお、プロコフィエフのバレエ組曲「シンデレラ」から「春の精」「夏の精」「秋の精」「冬の精」の4曲は演奏会の一ヶ月前に追加されたプログラムで、これで彼女が日本の四季を意識して選曲していたことが、さらに明確になった。)
ルース・スレンチェンスカはこの2年間で延べ50日以上岡山に滞在したことになったが、いつも口にしたのは「ここは天国だ!」という言葉だった。
先生の音楽とお人柄に傾倒し、巨匠に失礼のないようにだけ心がけて、裏方を務めてきた私たち家族にはいつも誉めすぎのように聞こえた。
確かに岡山の四季はきれいで、食べ物も豊かだ。滞在中は出来るだけ名所旧跡とおいしい店にお連れし、いつも案内人冥利に尽きるくらい、「すばらしい」、「おいしい」と喜んでくれた。
そして、外界と隔絶した私の小さいホール(劉生容記念館)で、父の絵に囲まれた中で弘中俊也氏が付きっきりで丹精込めて調整した、ルース先生が「私の友だち」と呼ぶ1926年製のスタインウェイ・ピアノと心行くまで一日中対話を交わすのが一番の楽しみだったようだ。
もちろん、2年の間、演奏会やCDを通して、少しずつ筋金入りのファンが日本に増えて、毎回先生の音楽を心待ちにしてくれていたのは、先生にとってさらに心弾むことだったのは言うまでもない。
80歳のお祝いコンサートを企画したばかりに、それが先生のラスト・コンサートとなってしまったことに、最初私はかなり困惑した。この2年の間、ルース先生はそれこそ日々進化を遂げ、パワーアップしてきたので、いつの間にか私は先生が小柄な80歳の老婦人であることを忘れていたのだ。
「80歳の老人にとって毎日8時間練習し続けるのは大変なことなのよ。」「最善の状態で最後にしたい!」ルース先生の決心は固かった。
そして、少なくとも現時点で、先生の試みを支えるためのすべてが揃っている、この岡山の地がラスト・コンサートを行なう場所に選ばれたのだと思う。 2005年1月20日、台北で自分の80歳を祝う2つの盛大なコンサートを終えて、ルース・スレンチェンスカが岡山に到着した。
今回もスケジュールがいつの間にか予定よりかなりふえていた。わずか1週間の間に、1月30日の三大協奏曲コンサート(リスト:第1番、ショパン:第2番、チャイコフスキー:第1番のピアノ協奏曲)のための3回のオーケストラとのリハーサル、岡山シンフォニーホールでの2日連続の協奏曲とリサイタルのコンサート、私のホールでの2回のリサイタル、その間を縫って指揮者の迫昭嘉氏とのリハーサル、6回のレコーディング、郊外の小学校でのスクール・コンサート、(人生最初で最後の!)急遽決まった1週間にわたるドキュメンタリーを作製するためのテレビ取材撮影…。
真冬の寒さと殺人的なスケジュールでルース先生は体調を維持することができるのか、そして到着の翌日の練習中に、弦が一本切れたわが家の79歳のピアノが最後の最後まで持ちこたえ、ルース先生との有終の美を飾ることができるのか?祈るような気持ちで私は「二人の老婦人(two old lady)」のコンディションを見守っていた。
人生最後のパフォーマンスはどれほどのプレッシャーになるものか、ましてやこれほどのエピソードとキャリアを持ち、称賛され続けてきた伝説的なピアニストが、自ら尋常ではないハードなプログラムを立てて臨むラスト・コンサートの圧力は想像を絶するものであろう。
毎日夜の11時前にホテルの部屋に戻り、洗濯をし、髪を洗い(「そのぐらいのことは自分でできる!」とルース先生は家内が世話を焼くのをよしとしなかった)、朝6時半には起床、部屋を片付け、新聞を読み、手紙を書き、8時45分にはロビーで私たちの迎えを持つ、という規則正しい生活をルース先生は続けた。そしてどの瞬間もルース先生は自分を取り巻くすべての物事を正しく見つめ、真心込めて正しく反応しているように感じた−−朝早くホールの外の草むらの中に咲いた一輪のひな菊の白い花を見つけてうれしい歓声をあげたとき。ある午後、レコーディングを終え、夜のコンサートまでの僅かな時間に後楽園へ散歩に出かけ、園内の茶店で渡された英語版の「桃太郎」の童話を「面白い」と言って、小学校の先生よろしく、一気に最後まで私たちに読み聞かせてくれたとき。誰に対しても丁重に、簡潔で心に響く言葉で返事するとき。もちろんピアノの向こうから響いてくる音に耳を傾け、一音一音正しく練習しているとき…−ルース・スレンチェンスカは一分一秒とも正しく生きようとしているように思えた。
そういう生きる姿勢の積み重ねが、40代でスポットライトを浴びるのを自ら絶ってもなおかつ進化を遂げられた一番の秘密だと私は思った。そして、このラスト・コンサートの試みがその集大成だったのだ。
3歳の時からピアノへの絶対的な愛によって自分を鍛え、ピアノとともにあらゆる困難を乗り越え、いまや自分のピアノの音によって、人々に生きる力を与える神のような境地に辿りついた希有なピアニスト、ルース・スレンチェンスカ!ショパンのバラード第4番の最後の音がついに岡山シンフォニーホールに響き渡った。立ち上がって鳴り止まない拍手を送っていた聴衆に、ルース・スレンチェンスカは2曲のアンコールで答えた。
1曲目のショパンの「ワルツ第14番」は私の弟の2歳の息子の顔を浮かべながら弾き、そして2曲目のリストの「バガニーニ大練習曲」第4曲(アルペジョ)を弾き終え、固唾を飲んで舞台の袖で控えていた私の手を取って、「This isfor you!」とおっしゃった。弾き通すだけでも2時間かかる大変なプログラムの最後の最後に、リストの難曲を披露したルース先生の真意は恐らく「私はまだまだ弾けるわよ!ご心配なく!」という聴衆と私への先生一流の茶目っ気たっぷりの彼女への心配に対する感謝のメッセージだったと思う。
もう一人の「老婦人」はどうだったかですって? 幸いにも、79歳のわが家のスタインウェイピアノはもう一本切れそうな弦は切れずに最後までルース先生と舞台に立ち、録音、録画も完璧にこなし、岡山にはめずらしい大雪にも降られずに、岡山シンフォニーホールからわが家に無事帰還した。
そして、その2日後に、もう一本の弦が切れたのだ。
すべての演奏が終った翌日も、いつものように、ルース・スレンチェンスカは朝の9時きっかりにピアノの前に座って練習を始めた。彼女は公開演奏をやめたのであって、ピアノを弾くのをやめたわけではなかったのだ。彼女にとって最高の友達はピアノであり、ピアノもずっと彼女の友達であり続けるのであろう。
実は、物語はここで終ったわけではなく、そのあとも(もちろんこれまでも)いろんな信じがたいような奇跡やエピソードが起こったが、いつかお伝えできる日がくるまで、ひとまずここで筆を置く。
ルース・スレンチェンスカの芸術Ⅳ
- 録音
- 2005年1月31日 岡山シンフォニー・ホール(ライブ録音)
- 使用ピアノ
- 劉生容記念館蔵 1926年製スタインウェイ
- 演奏
- ルース・スレンチェンスカ(ピアノ)
80歳の超人ピアニスト ルース・スレンチェンスカが、自らの76年の演奏人生を賭けた最後のコンサート。
「最善にして最後」・・・
ラフマニノフ、コルトー、ホフマン、シュナーベルの教えを受け継ぐ唯一のピアニスト、20世紀最後 の巨匠が後世に残したピアノ芸術の金字塔!