ルース・スレンチェンスカ
2007年さらなる奇跡の出会い
〜千年桜にみちびかれて〜

Ruth Slenczynska
2007 A Miraculous Encounter
~attracted by the 1000-year-old cherry tree~
    三船文彰
Bunsho Mifune

  2007年4月12日、快晴の岡山県北の山頂に立つ樹齢千年の満開の大桜の下で、新しい生命を与えられたクララ・シューマン愛用のピアノによる桜への奉納演奏が行われた。ピアニストは82歳のルース・スレンチェンスカだった。2005年1月、2003年からの第4回来日で、岡山での80歳記念三大協奏曲コンサート(30日)とラスト・ショパンリサイタル(31日)をもって、74年にわたる公開演奏のキャリアに完璧な終止符を打ったルース・スレンチェンスカが、その2年後に日本での彼女の芸術創造の地の岡山でさらなる奇跡の出会いをもたらすとは、だれが予想しえただろうか。
  多くの信じがたいご縁の集大成としての、このCDがどのように誕生したのか、その一部始終を見届けてきた者の義務として、これらのエピソードを簡潔に記録に留めようと思う。「ルース・スレンチェンスカの芸術」(T〜W)のCDの解説の中に詳述したように、ルース・スレンチェンスカは2003年4月からわずか2年半余りでアメリカのニューヨークから日本を4回訪れ、岡山の地だけに12回の公開演奏会を開き、4曲の協奏曲を除いて、ライヴ・レコーディングCDを8枚も残すという信じがたい超人的な足跡を日本に残した。
  伝説的なピアニストが78歳からピアニズムをさらに極める挑戦をサポートし、煽動し、見守り、そして巨匠の試みがすべて成功を収めることができたことで、私は自分の使命が十二分に果たせたという満足感に浸っていた。スレンチェンスカもラスト・コンサートの成功の喜びを噛みしめつつ、ニューヨークに戻り、彼女が前から宣言したように90歳まで、残るであろう人生の最後の10年間を楽しむために新たなチャレンジを始めた。─手始めにコンピューターをまたたく間にマスターし、それまで一通の手紙のやりとりに2週間以上かかっていたのが、世界各地の教え子や友人と瞬時にしてメールでコンタクトできるようになった。ピアノは、人の前で演奏することをやめただけであって、弾くことをやめたのではなかったので、一日数時間は規則正しく練習をつづけていた。しかし、ルース・スレンチェンスカのそういう理想的な引退生活は、翌2006年夏の私の友人からの一通の手紙で早くも幕引きを余儀なくさせられることとなった。その手紙はこう書いてあった。「私は東京にあるクララ・シューマン愛用のピアノの持ち主を知っている。クララ・シューマンとルース・スレンチェンスカはいろんな面でよく似ていると私は思うので、そのピアノをルース先生に弾いてもらったら興味深いことになるのではないか。」そのことをさっそくルース・スレンチェンスカに伝えたところ、「クララは10代の私のヒーローでしたよ。これまで彼女のピアノを弾く機会がなかったので、それがどんな楽器なのか見てみたいわ。」と、かなり前向きな答えが返ってきた。
  私にとっても大きなチャンスの到来と感じた。実はラスト・コンサート以後、私はいろんな機会を捉えて先生にブラームスの晩年のピアノ曲集の録音を懇願していたが、快適な毎日を過ごされていた先生からは色よい返事がなかった。
─「私は再び一日8時間の練習をする生活には戻りたくない!」
  クララ・シューマンのピアノで先生の録音への意欲を引き出せるかもしれない、と私は直感した。何しろ、クララはブラームスにとって人生で一番大切な人だったのはもちろんのこと、ブラームスのほとんどの曲はクララに事前に送られ、彼女の意見を聞いて完成しただけでなく、クララによって演奏されたのだから、クララのピアノでブラームスの曲がどのように響くのか、先生はきっと興味を持つはずだからだ。問題はそのピアノは録音に使える状態かどうか。「一度ピアノの持ち主に会って話を聞いてみたら」との友人の計らいで、さっそくに上京した。
クララ・シューマンのピアノ   そのピアノは1877年クララ・シューマンの特注によるグロトリアン・スタインヴェグ社( GrotorianSteinweg)のピアノで88鍵、フルコンサートサイズ。1887年11月クララがドイツのクレフェルト市の演奏会で使用した後、同市に寄贈され、1930年まで高校の音楽教育使用されたが、老朽化のためLinn博物館に保存、第二次世界大戦の時、地下室に保管されたため連合軍の爆撃を免れ、1984年に再びクレフェルト市営音楽教室に移され修理を試みるも修復できず、1987年日本の商社に売り渡され、日本に運ばれすぐにオーバーホールしてホテルなどで時々演奏に使ってきたが、一年前から美術品保管倉庫に入れたままの状態とのこと。
  ピアノの持ち主とすぐに意気投合し、初対面から一時間後、「これほどの巨匠に弾いていただけるのは、ピアノにとっても幸せなこと、思う存分オーバーホールするためにも、このピアノをあなたに譲りましょう!」という信じられない展開となった。ピアノも見ずに、あれよあれよという間に、私はクララ・シューマンのピアノを所有することとなってしまったのだ。ピアノの状態には確かに一抹の不安があったが、私にはラスト・コンサートまで二人三脚でルース先生を支えてきた私のところのスタインウェイ・ピアノを、その後一年かけて立派にオーバーホールしてくれた腕利きの調律師の助っ人があるので、どうにかなるだろうと気楽に考えていた。
クララ・シューマンのピアノ   その一週間後、ピアノは東京から大阪の調律師の工房に到着した。装飾を施した脚とペダルは19世紀のロマン主義の息吹を感じさせ、クララ・シューマンにふさわしい気品のある姿には感激したが、全体的にはかなり劣化している感じだった。すぐさま7人の調律師による徹底的な分解調査の結果は、「オーバーホールができないかもしれない」ということだった。つまり、これまでに施されていた修理はピアノにかなり無理を強いるものであった上に、使用していた部品はすべて現代のものだったのだ。ピアノ元々のタッチと音色の復元など夢のまた夢だと一同は悟った。
  私の不安は的中した。
  しかし、意気消沈して岡山に戻った私の前に思わぬ展開が待っていた。
  その翌日、本屋で何気なく手にしたピアノを紹介する本の中に、クララ・シューマン愛用のグロトリアン・ピアノが武蔵野音楽大学の楽器博物館に収蔵されていると書いてあった。そのもう一台のピアノを調べることができたら、なにか修理に役立つことが見つかるかもしれない。幸いにも館長がわれわれのプロジェクトに理解を示し、「この方たちに心ゆくまで、そのピアノを調べさせなさい」というありがたい調査の許可が、私のピアノの修復への決定的な突破口を与えることとなったのだ。
   武蔵野音楽大学の楽器博物館所蔵のクララ・シューマンのグロトリアン・スタインヴェッグは1871年製で85鍵、保存状態の良い、マホガニーのフルコンサート・ピアノだった。分解してみると、驚いたことに丁寧に修復を施されたすべての部品はオリジナルだったのだ。その瞬間に、私のところに来たこのピアノをクララ・シューマンが弾いた当時に近い状態に、復元できるかもしれないという希望が湧いてきた。
  19世紀の後半、特に1860年〜80年の間、ピアノという楽器は完成に向けて日々進化を遂げていたので、1871年から6年経っただけで、同じグロトリアンのピアノでも鍵盤の数や楽器の長さ、大きさが増し、ほとんど現代のスタインウェイ・ピアノの原型に近い形となっているが(なお、グロトリアン・スタインヴェッグの「スタイヴェッグ」はスタインウェイのことで、グロトリアンはほとんどスタインウェイの特許でピアノを製造していた)、弦の太さ、打鍵のアクション部分の寸法や木の材質もそれほど大幅な変化はないであろうと判断し、武蔵野音楽大学所蔵のクララ・シューマンのピアノの寸法に合わせて、弦はフランス、アクションはドイツ、本体とフレームの塗装し直し、白鍵の張り替えは日本の専門業者に特注し、それらを組み立てて、私のところのクララ・シューマンのピアノに新しい命を吹き込むオーバーホールのメニューが決まった。
  ちょうどクララ・シューマンのピアノ修復に目途がついた頃、私のところに一年ぶりに一本の電話がかかってきた。「ルース先生に醍醐桜の下でピアノを弾いて頂く件で、もう一度詳しく関係者の皆さんに話をして頂けませんか」と。実はその一年前に、こういうことがあったのだ。
醍醐桜
   2005年の夏、私の友人がルース・スレンチェンスカのラスト・コンサートのCDを取りに、診療後の私の病院に訪ねて来た時のことだった。彼女がCDジャケットの写真を見て「この桜に見覚えがあるような気がする」と言った。私は、「これは私が撮った岡山の県北の山の上にある醍醐桜の写真ですよ。ルース先生のラスト・コンサートのCDジャケットを飾るのにふさわしいのはこの千年桜しかないと思って、先生の写真の背景に使ったのですよ」と答えると、彼女は「実は私は醍醐桜の近くの出身です」と言った。私はびっくりして、彼女に一つのエピソードを語った。2004年春、10年来のわが家の春の一番の楽しみの満開の醍醐桜の花見に行った時のこと。山奥の山頂に聳え立つ樹齢千年の大桜のこぼれんばかりの花を何時間も飽きずに眺めていたら、家内が「桜の花びら一つ一つがルース先生の奏でる音符に見えてきた」と、思わず感嘆の声を上げた。桜の写真をつけて、そのことをルース先生に伝えたら、「ぜひその桜に会いたい」ということで、それが2004年夏のルース・スレンチェンスカの第3回の来日のきっかけとなり、そしてその時のライヴ・レコーディングが「ルース・スレンチェンスカの芸術」のUとVとなったのだ。
  連日35度の酷暑の部屋での二週間に渡るコンサートとレコーディングが終了し、約束通り先生を醍醐桜のところへお連れした。夕立ちと雷に見舞われた午後だったが、山頂に着いたら不思議に雨が止んで、心ゆくまで大桜と対面できた。帰途に着こうとした時、再び大風が吹き、桜の葉が矢の如く我々に降り注いできた。その時先生が「いつか私はこの樹の下でピアノを弾きたい」と呟いた。「もちろん醍醐桜のところへ行ったことのある人は、それは実現不可能な夢だと誰もが思うだろう」と、最後に私が付け加えたら、友人は「いえ、ぜひその夢を実現させましょう!」と興奮して叫んだ。
  友人はさっそく真庭市役所に勤めている、醍醐桜の保存を長い間担当していた高校の同窓に連絡をとった。ルース・スレンチェンスカの音楽と人柄、そして醍醐桜へ寄せるルースさんの愛情に感動した切明女史が私に電話をかけてきたその人だったのだ。彼女は2005年夏のその時以来、地元の関係者たちに、名前を知るよしも無い81歳のアメリカのピアニストに醍醐桜の下でピアノを弾いてもらうという荒唐無稽の夢の実現を呼びかけ続けた。
  フルコンサートサイズのピアノを山頂まで運べるかどうか、という物理的な問題もさることながら、なぜそこまでして桜の下でピアノを弾かなくてはいけないのか、ということがそもそもみんなの理解を超えていた。
  それはもっとものことだと私も思っていたので、ほとんど事の進展を期待せずに一年間が過ぎようとしていた時に、切明女史から意外な電話が掛ってきたのだった。「こんなにいい話をどうしてずっと気付かなかったのかと、今皆さんが思い始めているので、一度関係者を集めますから、桜のところまでご足労願えませんか?」と。
  一週間後、恐らくなかなか理解は得られないだろうと思いながらも、私はルース・スレンチェンスカのこと、私の家族とルース先生の醍醐桜との出会いのこと、桜の下での演奏は人間のためではなく(ルースさんはラスト・コンサート以後,人前では演奏をしないと決めたので)、桜だけに聴かせること、つまり桜への奉納演奏となること、などを地元の関係者20数人に力の限り説明をした。その1時間後、恐る恐る見回してみると、最初当惑したような皆さんの顔が徐々に柔和になり、そしてついに笑顔に変わっていた。会長が立ち上がって「我々は音楽のことなどまったくわからないが、今のお話を聞いて、ご縁というものを大事にしなくてはいけないと思うので、ぜひルースさんの夢を私たちでかなえて差し上げましょう。」と言った。
地元の関係者の方と
  ルース・スレンチェンスカの醍醐桜への奉納演奏が決まった瞬間だった。
  そしてその時期は来春の桜満開の日と、みんなの意見がすんなりと決まった。
  「ならば、クララ・シューマンのピアノを運びましょう」と私は即座に宣言した。春爛漫の山頂の日本の千年桜と、きれいに修復したドイツの音楽史上の偉人であるクララ・シューマンのピアノ、そして人間界の82歳のピアノの巨匠ルース・スレンチェンスカの3者が一同に会して繰り広げるユートピアのような光景が私の目の前に浮かんでいた。しかしすぐに、そのユートピアを実現するまでには、立ちはだかっている数々のとんでもない困難を乗り越えなくてはいけないことをみんなは悟った。
  桜満開の季節に毎年醍醐桜までの山道で3時間待ちの花見客の車を半日止めて、桜への奉納演奏を挙行できるのか、ピアノを無事山頂まで運べるのか、桜の花が決められた日に満開の状態でいてくれるのか、その日の天気が晴れるのか、クララ・シューマンのピアノの修復が間に合うのか、そもそもルース・スレンチェンスカの意向も聞かずに進めてしまったプロジェクトなので、ルース先生は来てくれるのか、来ることになっても、82歳の老人がはたして体調を維持してニューヨークと岡山を往復してこれだけの大事業を完遂できるのか、・・・。どれ一つをとっても未の困難であり、どれひとつが崩れてもたちまち実現不可能となる、実に危うい計画だったのだ。
  桜にピアノを聞かせたいという、たったそれだけのことだが。
  それでも、どんな困難もみんなの力で乗り越えられる、という揺るぎない信念が不思議と最初からプロジェクトに携わるすべての人々の心の中にあった。ピアノは、クララ・シューマンへの尊敬の念がそれぞれの職人を動かし、めったに納期の融通をしないヨーロッパの業者までが部品の製作を早めてくれたりと、修復が急ピッチに進んだ。しかし一番の困難は、実はこのプロジェクトの主役であるルース先生の演奏の意欲をかきたて、岡山まで来て頂くことだったのだ。
  一回限りの演奏のためでも半年にわたる毎日8時間の練習の日々がまた始まることを、完璧主義の先生はよく知っていたのだ。案の定、最初は感激してすぐにブラームスとシューマン夫妻の作品から10数曲のプログラムを立てたくらい、乗り気満々だった先生は、来日ぎりぎりまでの間に実は何回も「もう日本に行けないかもしれない!」という便りを私に寄こしていたのだ。他の準備が着々と進んでいる中、いかに先生にプレッシャーを感じさせずに、前向きな気持ちに切り替えていただけるか、地球の反対側の岡山で気をもむ日々が続いた。
  予定の一か月前になって、先生の気持が決定的に固まる出来事が持ち上がった。岡山のテレビ局が、この度の出来事をドキュメンタリーにするべく準備を進めていたが、ルースさんの取材に私が同行することとなり、3月の中旬ニューヨークへ立った。
  思わぬ大雪のため途中のデトロイト空港で1日半足止めされたあげく、深夜這うようにたどり着いたニューヨークの空港に、山のように用意してきたカメラの機材などの荷物が行方不明、取材の日程が半日に縮小、おまけに着いたその夜に友人が歓迎をかねて準備してくれたホームコンサートで、私はチェロをぶつけ本番で弾かなくてはいけないことになったりと、散々な旅となった。
  ニューヨークにわずか一日の滞在で帰国の途につくことになり、翌朝空港から先生に電話を掛けたら、「昨夜の演奏はとてもよかった。あなたが表現で目指しているものは、私と同じですよ。」と、その前の日とは別人のような明るい声が聞こえてきた。私は驚きと恐縮で、「先生の音楽から学んだだけです」と言った。その上すかさず「先生の音楽はまだまだ進化しておられると私は思っています。ぜひ音楽を愛する人々のために、もっと先生の芸術を残してください。」と申し上げた。
  「All right !」この4年来いつもと変わらない自信に溢れた先生の声が、受話器の向こうから大きく響いてきた。最悪の状況下での訪米が、先生に再び演奏する意欲を引き出すという思いもよらぬ収穫をもたらしたのだった。これで人間の側では目標に向かって全員の足並みが揃った。あとは挙行日の4月16日の天候と桜の花の開花状況という人知を超えた部分に祈りを込めるだけとなった。
  3月の下旬、私は自分でも信じられないある決断をした─「不吉な予感がするので、日にちを早めよう!」と。さっそく関係者を集めて、「天気は晴れさせます!花は咲かせます!」とほとんど脅迫まがいのことを口走って、無理やり日にちを4日早めて4月12日に変更したのだ。
  それでも2007年は異常な暖冬で、なんと4月1日には醍醐桜が例年より10日早く満開を迎えてしまったのだ。普通でも満開から一週間で桜の花が散ってしまうので、関係者は毎日祈るような気持ちで花を見つめるしかなかった。
  しかし日にちを早めたことで、ピアノの修復のほうは大きなしわ寄せを被った。それでなくても、もともと間に合いそうにないきわどいスケジュールだったので、最後の一週間みんなは不眠不休の仕事となった。
  関係者一同が大波に揺さぶられる日々を過ごしているのをつゆも知らずに、ルース・スレンチェンスカは元気に4月8日にニューヨークから岡山に到着した。そして、これまでと変わらず、そのまま駅からピアノのところへ直行した。その前の日に大阪から到着したばかりの、きれいに修復したクララ・シューマンのピアノは信じられないような豊かな音を響かせた。それでも、「このピアノと友達になるためには、さらに数日時間がかかる」と、さっそくルース・スレンチェンスカは毎日8時間の練習を開始した。
  桜のほうはみんなの祈りが通じたのか、何とその後4月には珍しい雪が降り、前の日まで奇跡的に10日間も散らずに待ってくれていたのだ。天気も一週間前に60%だった降水確率予報がその前の日には20%に下がっていた。そして、4月12日当日の朝は快晴の青空、醍醐桜は緑の下草に花びら一つも見つからないくらい満開の状態のままだった。
  クララ・シューマンのピアノは、みんなが山頂の傾斜地に合わせて綿密に図面まで書いて、地元特産の最上の杉の木で作った立派なステージの上に載って、醍醐桜に向って鎮座していた。
  朝一番に醍醐桜のふもとにある全校生徒5名の小学校で、子供たちのために30分ピアノを弾いて、先導する予定だったパトカーにそのまま乗ってしまったルース・スレンチェンスカが桜のところに到着した。そして半年前から私の脳裏に浮かんでいた映像が、実際に目の前に繰り広げられたのだ。それは測らずしも私がその2年前に作った、ルース・スレンチェンスカのラスト・コンサートのCDジャケットに載せた写真のままの光景だった─ルース・スレンチェンスカが満開の醍醐桜の下のピアノの前で、満足そうな笑顔を浮かべてたたずんでいる映像。ただ一つ違っていたのは、ピアノが私のところのいつものスタインウェイではなく、クララ・シューマンのピアノになっていたということだった。
  プロジェクトを推し進めてくれた数人の方とピアノを修復した職人、そして醍醐桜の地元のほとんどが70歳以上の数十人のおじいさんとおばあさんのピュアな情熱から、奇跡が生まれようとしていたのだった。日本の民族が愛惜を感じ続けてきたこの特別の山の上で、西洋の楽器であるピアノの音が初めて鳴り響いたのだ。
  ルース・スレンチェンスカはクララ・シューマンのピアノにちなんで、この日のためにブラームスの曲から「ロマンス」(Op.118-5)、ワルツ集(OP.39)、ハンガリー舞曲第1番、クララ・シューマンの曲から「ラルゲット」、シューマンの曲から「ロマンス」(Op.28-2)、「トロイメライ」(悠仁親王のご誕生祝いとして)、そして2005年2月皇居に招かれて以来親しい友情が芽生えた日本の皇后陛下に捧げるために、山田耕筰の「砂山」が特別に選ばれた。百数十年前、シューマン、クララ、そしてブラームスがお互いの胸深くに封印したロマンスの秘密を、醍醐桜の力を借りて語らせようとするかのような選曲だった。
醍醐桜の下、クララ・シューマンのピアノで演奏するルース・スレンチェンスカ   最初のブラームスの「ロマンス」に驚いて鳴き騒いだうぐいすも、いつの間にか音楽に合わせて絶妙な合いの手を打ち、そしてなんと演奏の途中から桜の花びらがはらはらと舞い降り始めたのだ。それはあたかも醍醐桜がピアノの音に満足し感謝を述べているかのようだった。そして最後の曲を弾き終えルース・スレンチェンスカが立ち上がった瞬間、花吹雪となったのだ。
  西方楽土ともいうべき本当の美しい日本の姿がまさにみんなの目の前に出現したのだ。
  その時ルース・スレンチェンスカが、「もう公の場所で人間には聞かせない」というポリシーに従って、ピアノから30メートル離れた先にロープで律儀に隔離され、奉納演奏の光景を見守っていた地元の皆さんに、「いらっしゃい!」と呼びかけた。そして桜の花が降りしきる中、ピアノのまわりを囲んだ会を準備してきた人々のために、シューマンの「きみにささぐ」、とショパンの「子犬のワルツ」の2曲の演奏でもって感謝の気持ちを表したのだ。
  ルース・スレンチェンスカの醍醐桜の下でピアノを弾きたいという夢は、想像を超えた完璧な形となって結実した瞬間だった。
  それは、たとえあの世に行ってもおそらく出会えないような光景だった。
  しかし奉納演奏の成功の余韻に浸る間もなく、昼食も取らずにルース・スレンチェンスカは、桜から離れた市内の二つの小学校で子供たちのために、さらにそれぞれ一時間以上ピアノを弾き、その日のすべての演奏のスケジュールを終えたのは夕方の5時だった。
  その夜は地元の方たちによる盛大な送別会が開かれた。ルース・スレンチェンスカもやっと心ゆくまでご婦人たちによる心づくしの手料理や郷土の踊りを楽しみ、最後の最後まですべてが純粋な喜びの中で成就されたことをかみしめたのだった。
  数日後、ルース・スレンチェンスカは最初の予定日だった4月16日に日本を離れたが、何とその日の醍醐桜の一帯は大雨となり、花に至っては奉納演奏の翌日の13日にはすでに残らず散ってしまっていて、樹には花ひとつなかったのだ。
  真新しい特製のステージは翌日には解体され、クララ・シューマンのピアノは我が家に帰還し、醍醐桜は新緑の葉の装いとなり、桜の地元の方たちは毎年の春の農作業の準備に取り掛かり始めた。一日で山頂の浄土の痕跡はあとかたもなく消失したのだ。
  醍醐桜に心惹かれて動いてきた人々の前に奇跡が確かに出現した。私はその中に幾つものご縁が現れ、それぞれが自分の意志で進行し、お互いが兼ね合いを見計らいながらかのごとく絡み合い、そして人間の力を超えた自然の状態までも調整し、最善の目標に向かってすべてが収束するのを目撃してきた。それは何かの力が働いたとしか言いようのないものだった。
  千年生きてきた桜がルース・スレンチェンスカとクララ・シューマンのピアノを呼び寄せて、我々に何かのメッセージを伝えようとしたのかもしれない。いまの地球上でユートピアはまだ存在し得ることをわれわれに示そうとしていたのかもしれない。いずれにしても、この真に美しい日本の姿は永遠に私の心に残っていくことだろう。
  以上が2007年4月ルース・スレンチェンスカの醍醐桜への奉納演奏の一部始終だが、ルース・スレンチェンスカは夢を果たせたものの、先生にブラームスの後期の作品をレコーディングしていただくという私の夢は、果たせず仕舞いだった。一つは奉納演奏に至るすべてが想像以上に力のいることだったので、それ以上先生にご無理をお願いできなかったのと、クララ・シューマンのピアノは修復には間に合ったものの、レコーディングで使うにはまだ多くの調整と弾き込みが必要だったのだ。
  ピアノのコンディションをさらに完璧なものにするという約束で、先生に半年後の11月に再度の来日をお願いした。加えて、4月での滞在中に岡山の県南にある古刹、由加山蓮台寺の住職に、11月に寺に伝わる行基作の十二面観音の99年目の御開帳の最後の日の奉納演奏を懇願され、先生は快諾していたので、精神的な目標が二つもできたということで、今度の来日はすんなり行けるのではないかと私はやや安心していた。
  しかし、間もなくまたもや弱気の便りがニューヨークから届くようになった。
  実は精神的なことよりもルース・スレンチェンスカはずっと大きい肉体的な問題を抱えていたのだ。
  80歳過ぎた人間が誰しも直面する全身的な衰えも確かに先生の一番じれったく感じていることではあった。「アイデアがどんどん湧き出てくるのに、それを形にする体力がついていかない。とても残念だ。」「あなたも80になったらわかるわ!」一回だけ先生がそれらを口にするのを耳にしたが、もっと切実な問題があったのだ。実は、70歳後半から軽いリューマチにかかり、ルース・スレンチェンスカはピアニストの命である両手がこわばり、震えるようになったのだ。それでも80歳のラスト・コンサートまでそれを感じさせない超人的な演奏を、これまた信じられないようなハードな練習によって実現してきたのだが、2005年の秋ショパン・コンクールのことで招待を受け、ポーランドへ出かけた時に一人で荷物を持ちすぎたがために、なんと左手が生まれて初めて故障したのだ。コップさえも持てない状態が醍醐桜の奉納演奏の数か月前までも続いていたのだった。それが、スレンチェンスカが2007年の来日を度々躊躇った最大の原因だったのだ。
  醍醐桜への奉納演奏は、スレンチェンスカがこれらの肉体的な問題をも克服した上で成し遂げられたことでもあったのだ。
  その上、この度のブラームスのピアノ曲は手の小さいスレンチェンスカにとって、さらに指の負担を強いるものだった。私は日本の岡山でスレンチェンスカに神のご加護あらんことを祈るしかなかった。
  ところがきびしい練習を続けているうちに、さらに多くのアイデイアとインスピレーションが湧きあがり、指の問題もいつしか忘れ、ルース・スレンチェンスカはいつもの創造に燃えるピアニストに戻っていたのだ。
  そして2007年11月にスレンチェンスカは六度目の岡山の地を踏み、私の念願のレコーディングが実現したのだ。
  最初は予定通り、クララ・シューマンのピアノですべてのプログラムを弾いて頂いたが、何日も練習しているうちにブラームスの「2つのラプソデイー作品79」と「作品118、119」はこのピアノでは表現できないとスレンチェンスカが判断し、最終的にこの3作品は、いつもの1926年製のスタインウェイで収録することとなった。結局全プログラムはそれぞれの曲の成立年代に適合した2台のピアノによって弾きわけられ、二枚のCDにまとめることとなり、さらに意義深いこととなった。
  しかし、2008年夏になって、スレンチェンスカはワルツ集以外のブラームスの作品の再度の録音を決心したことで、クララ・シューマンのピアノで録音したこのCDが単独で出版することになった次第である。


 
  April 12th, 2007―on this sunny day, Slenczynska held a dedication recital, with the piano of Clara Schumann, under the 1000-year-old cherry blossom tree on the top of the mountain in the north of Okayama.
  Slenczynska came to Japan for the fourth time since 2003 in January 2005 to give her 80th-birthday concerts, including three concertos (30) and the last Chopin recital (31), and finished her 74 years' stage career. Who could imagine at that time, that Slenczynska would come back to Okayama again two years later and had a miraculous encounter!
  I believe it to be my obligation, as one who had witnessed the whole story, to record briefly how this CD was made possible through all the incredible links of people.
  As described in the booklet of "The Art of Ruth Slenczynska I~IV," since April 2003, Slenczynska had come to Japan for four times during the two and a half years, giving twelve recitals in Okayama, leaving a total of 8 live CDs.
  Being able to support, encourage and watch the 78-year-old virtuoso to challenge even higher plane of pianism, I felt satisfied and believed my duty was fulfilled.
  Slenczynska was also pleased with the success of her last concert. After returning to New York, she started new challenges as she declared before, in order to enjoy her remaining life. She learned computer and can now contact her pupils and friends all over the world via e-mail, without the need to spend 2 weeks to communicate by letter. Furthermore, although she had retired from stage, she didn't stop playing piano, and kept practicing for a few hours every day.
  However, Slenczynska's ideal retirement life was suddenly interrupted by a letter from my friend. "I know someone in Tokyo who owns Clara Schumann's piano. In my view, Slenczynska and Clara Schumann have a lot in common, and I believe it will be very interesting if Ms. Slenczynska can play this piano."
  I told this to Slenczynska, and she returned me a positive answer: "Clara was my heroine in my teens. I would really like to see that piano."
  I felt that this might be a big chance. As a matter of fact, I had been inviting Slenczynska to record Brahms' later piano works, but she never gave me a positive response before.
―"I don't want to practice piano 8 hours a day any more!" She said.
  But with this piano of Clara Schumann, I thought perhaps she would be interested in recording again. After all, Clara Schumann is the most important person in Brahms' life; almost all his works were sent to Clara first to ask her opinion and performed by her on stage. I know that Slenczynska would certainly be interested in knowing how his music would sound on Clara Schumann's piano. The problem was whether the piano's condition was good enough for recording. "How about talking to the owner by yourself?" My friend suggested. Thus I decided to go to Tokyo.
  The piano was a special order by Clara Schumann, made in 1877 by Grotrian Steinweg, and it's a concert grand with 88 keys. In November 1887, after playing with this piano in a concert in Krefeld, German, Clara Schumann donated it to the city. The piano had been used in high school music education until 1930, and was later preserved in Linn museum due to deterioration. It was kept in the museum's basement in the World War II, thus surviving the Allied bombing. In 1984, it was sent to Krefeld's city-run music class to get repaired, but not quite successful. In 1987, the piano was sold to a Japanese trading company and sent to Japan. After being overhauled, the piano was occasionally played in hotels, but since one year ago it had stayed in the antique warehouse.
  I had a pleasant conversation with the owner of the piano, and after one hour, the owner made an incredible suggestion: "It will be a great honor for the piano if it can be played by such a virtuoso. I would like to hand it over to you, so that you can overhaul it as you wish." the owner said. Thus Clara Schumann's piano came under my possession before I had a chance to watch it. Honestly I was a little bit worried about the piano's condition, but I knew very skillful piano tuners who spent one year to overhaul my Steinway which had supported Ms. Slenczynska until the last concert, so I felt quite optimistic.
  A week later, the piano was sent from Tokyo to the tuner's studio in Osaka. Its decorated feet and pedals were reminiscent of 19th century Romantic style, and its grace was suitable to Clara Schumann. However, the overall condition of the piano was quite miserable. The seven tuners quickly opened the piano and made a thorough inspection, and they made this conclusion: "This piano may not be overhauled." The reason was that the previous repairs had actually been harmful to the piano, and the repaired parts were replaced with modern ones. Everyone found it almost impossible to recover the original touch and sound of the piano.
  My fear proved right.
  However, when I returned to Okayama depressed, an unexpected discovery changed the whole situation: I went to a bookstore the following day, and on a book which I picked up carelessly, I found that one of Clara Schumann's piano was kept in the musical instrument museum of Musashino Academia Musicae. I thought that if we could check the piano in the museum, it might be helpful in repairing my own Clara Schumann's piano. Fortunately the curator was understanding to our project and gave us permission to examine the piano thoroughly, which was a great breakthrough for the repair work.
  The Clara Schumann piano kept in Musashino Academia Musicae was a Grotrian Steinweg made in 1871, a mahogany concert grand in good condition, with 85 keys. When we opened the piano, everyone was surprised to find that the inner parts were all repaired with original ones. At that moment, I started to believe that my own piano could also be repaired to nearly the same condition as Clara Schumann had played it.
  In the latter half of the 19th century, especially from 1860 to 1880, the piano underwent tremendous changes before taking on its modern form. From 1871, within only six years, the piano from the same Grotrian brand had increased its number of keys, lengths and sizes, and became almost identical to the modern Steinway piano (the word "Steinweg" in "Grotrian Steinweg" refers to Steinway. Grotrian pianos were almost always made under the patent of Steinway). However, we judged that the two pianos didn't differ too much in a certain aspects, such as the thickness of the strings, the measure of the action, and the material of the wooden parts. So we decided to repair our piano according to the one kept by Musashino, ordering strings from France and actions from German, repainting the body and frame, and asking for Japanese specialists to renew the white keys. Through these processes, the piano of Clara Schumann at my place could finally be overhauled.
  At the time when the schedule for the repair work was set, I got a phone call from someone after an interval of one year. "Can you speak to the people concerned about the project of inviting Ms. Slenczynska to play under the Daigo cherry tree?"
  This referred to an incident that happened one year ago:
  In the summer of 2005, a friend of mine came to my clinic after work to take Slenczynska's last concert CD. When She saw the CD cover, she said: "I think I've seen this cherry tree before." I told her: "This is the cherry tree on the top of a mountain in the north of Okayama. I took this picture myself and thought this 1000-year-old cherry tree was most suitable to be on the cover of Slenczynska's last concert CD." Then she told me: "I was born near that Daigo cherry tree." I was surprised and told her an episode: In the spring of 2004, my family went to see the blossom of the Daigo cherry tree as we'd always done during the past 10 years. When we were appreciating the 1000-year-old cherry blossom tree for hours, my wife suddenly said: "the petals of the flowers are like each of the note Ms. Slenczynska plays." I told these words to Slenczynska and sent her the picture of the cherry tree, and she answered: "I would like to see the cherry tree myself." This led to Slenczynska's third Japanese concert in the summer of 2004, and the live recording was released as "The Art of Ruth Slenczynska II & III."
  After finishing the concerts and recording sessions that lasted for two weeks in a heated room with a temperature around 35 ℃, I kept my promise and took Slenczynska to see the Daigo cherry tree. There was thunder and shower in the afternoon, but when we reached the top of the mountain, the rain suddenly stopped, so that we could appreciate the cherry tree to our hearts' content. When we were on our way home, the wind started again, and the leaves of the cherry tree were blown onto our car. At that moment, Slenczynska murmured: "I wish I could play under this tree someday." In the end of the episode, I added: "Of course, everyone who has ever been to the Daigo cherry tree knows that it is an impossible dream." But my friend exclaimed enthusiastically: "No! Let's make this dream come true!"
  She immediately contacted a high-school classmate who worked in Maniwa City Office and had been in charge of the Daigo tree for years. Ms. Kiriaki, the classmate, was moved by Slenczynska's music, personality and her love towards the cherry tree, and she was exactly the one who phoned me as I mentioned earlier. She had been trying to persuade the local people to realize this crazy idea: inviting an 81-year-old American pianist whom they'd never heard of to play the piano under the Daigo cherry tree.
  Apart from the question of whether it's possible to bring a concert grand piano atop the mountain, it was also difficult to explain why we should take such pains to play the piano under the cherry tree.
  I could understand those people's doubts, so I didn't expect too much. However, one year later, I got the unexpected phone call from Ms Kiriaki who told me: "Everyone starts to say, 'Hey, how can we have ignored such a great idea all this time!' I will gather the people concerned and have a meeting. Can you come to the cherry tree?"
  One week later, although I was still uncertain of success, I went there and gave a speech before more than 20 local people, on the topic of Slenczynska, how she and my family met the Daigo cherry tree, and that the recital under the cherry tree was not for the audience (Slenczynska had stopped playing in public after the last concert) but for the cherry tree―in other words, it was supposed to be a dedication recital. After talking on for nearly one hour, I looked around timidly and found that everyone who had seemed confused in the beginning started to smile with understanding. Finally, the president stood up and said: "We know nothing about music, but after hearing what you said, I believe that we should cherish this connection and realize Ms Slenczynska's dream."
  At this moment, Slenczynska's dedication recital had finally been decided.
  As for the date, we all agreed that the recital should be held during the cherry blossom season next spring.   "Then, let's take Clara Schumann's piano there."
  I immediately declared.
  On the top of the mountain under a 1000-year-old Japanese cherry blossom tree, with the newly repaired piano of German musician Clara Schumann, plays the 82-year-old piano virtuoso Ruth Slenczynska―the three of them joining together seemed to me a picture of Utopia. However, everyone understood that in order to realize the utopia, we should overcome a series of difficulties.
  Is it possible to stop the traffic, which usually takes three more hours to get to the mountain top in the cherry blossom season, for half a day in order to hold the piano recital? How should we send the piano to the mountain top safe and sound? Will the cherry tree blossom on schedule? Will the repair work of Clara Schumann's piano complete in time before the recital? And most important of all, the project was decided without asking Slenczynska's permission in advance. Will she come? And even if she agree to come, will she be able to stand the labor of coming to Okayama all the way from New York and fulfull such a heavy task at the age of 82? Each question was an uncertain factor, and the failure of overcoming anyone of them would spoil the whole plan.
  All the labors were meant to achieve one simple goal: playing the piano for the cherry tree.
  Strangely enough, from the beginning, everyone involved in this project seemed to believe that nothing is impossible when we work together. The respect for Slenczynska became the impetus that drove the technicians to repair the piano in time. Even the European dealers who are usually rigid on the date of delivery hastened the manufacture schedule of the piano parts for us. However, the most difficult part was to persuade Slenczynska herself to come to Okayama and play.
  Being a perfectionist, Slenczynska knew very well that even for one recital only, she would have to resume the life of practicing 8 hours a day for at least half a year. As I had expected, although she was very excited about this plan at first and immediately made up a program containing more than 10 of Brahms and the Schumann couple's works, when the date of her visit to Japan drew near, she started to wrote me pessimistic mails like: "I may not be able to go to Japan!" When all the other tasks were going on wheels, I had to try hard to encourage her without giving her too much pressure from the other end of the earth in Okayama.
  A month before the recital, something happened that determined Slenczynska to come: a TV station in Okayama which had been planning to make a documentary of this event would like to interview Slenczynska, and I went with the staff to New York in the middle of March.
  During this disastrous trip, we were first stranded at the Detroit Airport for one day and a half, and when we finally arrived in the airport at midnight in New York, the luggage including a pile of camera equipments was missing, shortening the interview schedule to merely half a day. Furthermore, on the night of arrival, my friend held a home concert to welcome us, and I was forced to go on stage without any preparation to play the cello….
  In the end, we only stayed in New York for one day. The next morning on the way back to Japan, I made a phone call to Slenczynska from the airport. "Your performance last night was really impressive. I believe your musical expression is aiming the same direction as mine." Her voice seemed cheerful and was completely different from last night. I was surprised and replied humbly: "I just learnt from your music." Then I quickly added: "I believe your music still keeps evolving. Please leave more of your art for all the music fans."
  "All right!" Slenczynska answered loudly. Her voice was as confident as I have known for the past four years. The trip which had a worst start succeeded in motivating Slenczynska to perform again. At this moment all the human affairs had been settled. The remaining problem was to pray that the weather would be fine and the cherry would blossom on the day of recital, April 16th.
  In the end of March, I made a decision which even I myself found incredible― "I had a foreboding; we should definitely put forward the date!" I told the people concerned in a nearly threatening tone: "I promise that it will be a fine day, and the cherry tree will blossom, too!" Thus the recital date was changed to April 12th.
  However, the winter of 2007 was unusually warm, and the Daigo cherry tree started blossoming ten days earlier than usual on April 1st. The flowers usually fall completely within one week, so everyone involved in this project watched it with anxiety.
  The change of date also had great impact on the repair work of the piano. The schedule was already tight enough, and in the final week, everyone in the studio had to work day and night to make it on time.
  Slenczynska, without any knowledge of the turmoil of the staff here, came with a lively heart to Okayama on April 8th. As before, she went straight from the station to where the piano was. The finely repaired piano had just been sent back from Osaka, and it gave incredibly rich sound. "It will take me a couple of days to make friend with this piano." Slenczynska said, and started practicing eight hours a day.
  A few days later, there was a rare snow in April, which made the cherry tree remained blooming, as everyone had prayed, until the previous day of the recital. As for the weather, while the forecast one week ago predicted a 60 % chance of rain, on the day before the recital, the chance of rain had fallen to 20%. On the morning of April 12th, the sky was clear, and the Daigo cherry tree was in full bloom, without even one petal fallen under the tree.
  Clara Schumann's piano was settled on the marvelous stage which was made of the local Japanese cedar of the best quality and carefully designed to fit the slope of the mountain top.
  In the early morning, Slenczynska played the piano for 30 minutes in the elementary school with only 5 students at the foot of the mountain. Then she went straight into the police car which was supposed to lead the way to the mountain top. When she arrived at the cherry tree, the image which had been in my mind since half a year ago came true. The scene before my eyes was exactly the same image used on Slenczynska's last concert CD cover, with Slenczynska sitting before the piano under the Daigo cherry blossom, smiling satisfactorily. The only difference was that the piano wasn't the Steinway which she used to play, but Clara Schumann's piano.
  This miracle was made true by the pure enthusiasm of those who started the project, the piano technicians, and the local people who were mostly above 70 years old. On this mountain beloved by the Japanese people, it was the first time that the western music instrument―piano―was played.
  To commemorate Clara Schumann, Slenczynska chose Brahms' "Romance" (op. 118-5), Waltz (op. 39), Hungarian Dance No. 1, Clara Schumann's "Larghetto", Robert Schumann's "Romance" (op. 28-2) , "Traumerei" (celebrating Prince Hisahito's birthday) for her program, as well as Kosaku Yamada's "Sand Mountain," which was dedicated to the Queen of Japan, whom she befriended when she was invited to the palace in February, 2005. The selection was like a revelation, assisted by the magical power of Daigo cherry tree, of the romantic secrets hidden in the hearts of Robert Schumann, Clara Schumann and Brahms.
  The warblers which were startled by the first notes of Brahms' "Romance" soon started to sing along with the rhythm of the music, and in the middle of the performance, the flowers on the cherry tree began to fall. It seemed as if the Daigo cherry tree was showing its gratitude towards the music. When Slenczynska finished playing the final piece and stood up, the flowers were already falling furiously like a snowstorm.
  The true beauty of Japan which deserved the name of paradise was revealed in front of everyone.
  Since Slenczynska had already declared "I won't play before the public anymore," ropes were drawn around the piano with a radius of 30 meters to separate the performer from the local people who were listening quietly outside. However, at this moment, Slenczynska waved her hands and called upon the audience: "Come here!" Then, in the falling flowers, she played two pieces for these people who made this recital come true: Schuman's "Widmung" and Chopin's "Minute Waltz," to express her gratitude.
  Slenczynska's dream of playing piano under the Daigo cherry tree was realized in an incredibly wonderful manner.
  Even in the other world, we might never seen such a beautiful scene.
  However, Slenczynska didn't have time to enjoy the success of the dedication recital, because she had to go to two other elementary schools far away from the cherry tree in the city and spent more than one hour in each school playing the piano for the children. After she completed the schedule of the day, it was already five in the evening.
  There was a grand farewell party held by the local people that evening. In the party, Slenczynska could finally eat the meal prepared by the local women and watch the traditional dance, ending the whole event with pure joy.
  A few days later, Slenczynska left Japan on April 16th, which was the original date of the recital. On that day, there was heavy rain around the area near the Daigo cherry tree, while the flowers on the tree had already fallen off completely on the next day of the recital, without a single flower left on the tree.
  The newly built stage was taken apart on the day after the recital, and Clara Schumann's piano was returned to my house. The leaves came out on the Daigo cherry tree, and the local people were starting to prepare for the planting season. The paradise which appeared on the mountain top that day disappear without a trace during one day.
  Yet the miracle did appear before those who were attracted by the Daigo cherry tree and worked together for this event. I had witnessed, in the whole process, the involvement of a number of people, who worked on their own in the beginning and later intertwined together in the right time. The incredible power of these links even affected the nature which was beyond the human control, and finally led to the best results. I could only conclude that it was indeed the work of some magical power.
  May be it was the 1000-year-old cherry tree that had brought together Clara Schumann's piano and Ruth Slenczynska, in order to give us some kind of message. Maybe it wanted to tell us, utopia isn't an impossible dream in this world. At any rate, the truly beautiful Japan which I had witnessed would always remain in my heart.
  Above I have described the whole story behind the dedication recital to the Daigo cherry tree performed by Slenczynska in April, 2007. However, although her dream of playing under the cherry tree had come true, my dream of inviting her to record the later works of Brahms remained unrealized. One reason was that the dedication recital alone demanded unexpected amount of labor, so it was impossible to ask Slenczynska for more. Another reason was that Clara Schumann's piano, though repaired perfectly for the recital, still required more regulations and playing before it could be used for recording.
  With the promise of improving the piano's condition, I asked Slenczynska to come to Japan again in November. Furthermore, when she came to Japan in April, the chief priest of an old temple in the south of Okayama asked her to hold a dedication recital for the last day of the 99th-year exhibition of the twelve-faced Kannon made by Gyouki, and Slenczynska agreed. Thus she had one more goal to come to Japan again, and I believed this time everything would go smoothly.
  However, Slenczynska soon started to write me pessimistic mails again from New York.
  In fact, the most serious problem for her was not mental, but physical.
  The physical decline everyone faces when over eighty especially irritated her. "I have a lot of new ideas, but I have no strength to make them take shape. It's really a pity." "When you reach the age of eighty, you'll know!" I have heard her mentioning once. There was actually even more serious problem: since her late seventies, she had suffered from light rheumatism, and her hands, which were most important to a pianist, started to stiffen and shake. Even so, with incredibly hard practice, she had revealed astonishing performance in her last concert. However, in the autumn of 2005, when she was invited to the Chopin Competition, she hurt her left hand by carrying around heavy luggage on her way to Poland. She could not even hold a cup until a few months before the dedication recital, and this was the biggest reason that made her hesitate to come to Japan in 2007. The dedication recital to the Daigo cherry tree was accomplished after she had overcome all those difficulties.
  What's more, the Brahms' works chosen for the recording this time would be a heavy burden to Slenczynska, who has small hands. All that I could do was to pray for her in Okayama.
  Fortunately, through the incessant hard practice, Slenczynska came up with even more new ideas and inspirations and totally forgot the problems with her fingers. She became once again an enthusiastic pianist burning with creativity.
  In November 2007, Slenczynska came for the 6th time to Okayama, and fulfilled my wish to record the CD.
  At first, she played all the works with Clara Schumann's piano following the original plan, but after practicing for several days, she found it hard to interpret Brahms' "two rhapsodies op. 79" and "op. 118, 119" on this piano. In the end, the three pieces were recorded with the 1926-made Steinway which she used before. Thus all the works were played with the piano that suited the time of their composition, recorded separately on 2 CDs, making this recording even more significant.
  However, in the summer of 2008, Slenczynska decided to re-record Brahms' works except the waltzes, and that's why this CD recorded with Clara Schumann's piano is released solely.
translator  Kiyoko Kruzliak

[戻る]


Copyright (C) 2005 Liu Mifune Art Ensemble.All Rights Reserved.