楽曲解説
The Works
    三船文彰
Bunsho Mifune
  クララ・シューマン(1819〜96)とロベルト・シューマン(1810〜56)そしてブラームス(1833〜97)との出会いは恐らく音楽史上の一大事件に数えられよう。クララとの出会いがなければ、シューマンとブラームスの作品はまったく違ったものになっていたであろう。そのくらいクララはこの二人の天才にとって霊感の源であり、彼らの才能の共有者だったと言える。クララ・シューマンは神童として音楽家のキャリアをスタート、10代からリスト、タールベルク、ヘンゼルトなどの同時代の偉大な男性ピアニストと同等と見なされ、メンデルスゾーン、ショパンに尊敬されたくらいの世界的な名士だった。スター演奏家として六十数年華やかに演奏活動を行っただけでなく、高名な教育者、成功した編集者、そして女性として一番早く認められた作曲家でもあった。
  しかし、彼女の一生は常に苦労と悲しみに溢れ、そして悲劇に満ちていた。
  5歳の時に両親が離婚、ピアノ教師の暴虐な父親によって神童として育てられ、子供らしい幼年時代を送ることができなかった。
  ロベルト・シューマンとの恋愛及び新婚時代が彼女の一生の中での一番幸せな時間だったが(それでも、シューマンとの結婚に猛反対した父親と数年間訴訟までして勝ち得た結婚だった。)、結婚14年目にシューマンが精神の病を患い、ライン河に投身自殺を図り、二年後に精神病院で46歳の若さで死去。残された幼い子供七人(のちに孫六人までも)を養うために、その後数十年続くヨーロッパ各地での年間60回以上の演奏活動が開始されたが、皮肉なことに子供たちはそのためにバラバラに分かれて住むことになり、子供たちに彼らの必要としていた暖かい環境を作ることができなかった。中でも三人の男の子はいずれも病弱で、精神的にも経済的にもクララを長く苦しめた。クララ自身も病気がちで、特に晩年のリューマチによる肉体的な苦痛と難聴は耐え難いものだったようだ。
  それこそ、ひっきりなしにやってくる不幸にもまれる一生ではあったが、その中で1853年9月3日、20歳のブラームスがヴァイオリニストのヨアヒムの紹介で、シューマン邸の扉を敲いた日から始まったクララ、ロベルト、ブラームスの三人の運命な出会い、そしてブラームスとクララの43年間を通じて変わらず続いた信頼と尊敬に満ちた愛情(晩年、ブラームスはクララとの関係を「あなたへの四十年にわたる忠実な御奉公」と、クララへの手紙に書いている)は、クララの人生の中での一番の心の支えとなったようだ。そして、芸術史上でももっとも美しいこの友情のおかげで、ブラームスの多くの名作がわれわれに残されたのだ。

    ロベルト・シューマン
3つのロマンスより第2曲嬰へ長調作品28-2
「きみにささぐ」(リスト編曲)
〜歌曲集「ミルテの花」作品25から第1曲
    1837年8月父の猛反対の中、クララはシューマンと密かに婚約。そこから3年に渡る父との壮絶な戦いが始まった。1837年10月から1838年5月までのウィーンでの大成功の演奏旅行から父とライプチッヒに帰ってきた18歳のクララは、ロベルト・シューマンとの恋の最終決断−結婚−を迎かえていた。二人の新天地を切り拓くため、そして父がライプチッヒ以外の町なら結婚を許してくれるかもしれないということにも望みをかけて、クララの勧めで1838年10月、ロベルトは単身ウィーンへ赴いた。
  そして1839年1月クララも父との訣別を決心し、パリへ生まれて初めて一人で演奏旅行を断行した。パリでのクララのそこそこの成功に比べ、メッテルニッヒの統制下になっていたウィーンでのシューマンはほとんど実力を発揮することはなかった。ついに1839年4月シューマンはウィーンを去り帰郷する。そういう時期に「3つのロマンス作品28」が書かれた。そして、この作品が1837年から続いた一連のピアノ曲の創作の締めくくりの曲となった。(1845年になって、やっとピアノの作品がまた作られるようになる。)
  1839年12月、結婚の許可をめぐって始まった父との裁判も1840年7月に勝訴し、9月5日ヴァイマールで開かれた演奏会がクララのクララ・ヴィークとしての最後の演奏会となった。そして9月12日、クララの二十一歳の誕生日の前日に行われた結婚式によって、クララはクララ・シューマンとなったのだ。
  結婚式の前夜、クララのもとに世の中のいかなる花婿もその花嫁に与えることなどできないほどのすばらしい贈り物が届けられた。それは、「わが愛する花嫁に」の献呈の辞とともにミルテの葉に抱かれた歌曲集だった。のちに「ミルテの花」として出版されたこの26曲の歌曲集の第一曲「きみにささぐ」を1848年に、その当時まだ親交のあったリストが華麗なピアノ曲に編曲した。
  結婚が荒れ狂う人生の大海原への船出とも知らずに、シューマンが婚約者クララへ注ぎ込んだ無限の慈しみと愛情の結晶として「ロマンス作品28-2」と「きみにささぐ」の2曲が生み出されたに違いない。その56年後の1896年5月、長らく病床に伏したクララが、孫のフェルデイナンドの弾く祖父ロベルトのこの「ロマンス嬰へ長調」を聴いたのが彼女が聴いた最後の音楽となった。その数日後の5月20日午後4時21分に、クララ・シューマンは77年の多難な、しかし実りの多い一生を終えたのだった。

    ブラームス
ワルツ集作品39
ハンガリー舞曲第1番、第7番
      ブラームスの作品は交響曲や室内楽の雰囲気(髭もじゃの肖像も?)から、全体にドイツ的な重厚、渋いものと思っている人には、彼が29歳からウィーンの住民であり、ワルツ王のヨハン・シュトラウスとは親友以上に、ブラームスの方がシュトラウスの大ファンであり、死後もウィーンの楽聖の墓地で二人仲良くお隣同志で墓を並べていること、そして、ハンガリー民謡を集めて編曲した二巻のハンガリー舞曲集の印税がブラームスの生涯の最大の収入源となっていたこと、1889年エジソンのセールスマンに頼まれて、蝋管に録音した曲がハンガリー舞曲第1番と数曲のワルツだったこと、などと知ったらびっくりするであろう。
  20歳まで、北ドイツのハンブルクの貧民街から外に出たことがなかったブラームスが、実はジプシー的、ウィーン的な気質へのあこがれをかなり若い時から持ち続けていて、色々な傑作にそれらが反映されているのを知ることは、ブラームスの作品をより深く理解する一つの鍵となろう。
  19世紀初頭の北ヨーロッパの最大の港町ハンブルクは、ヨーロッパ中からアメリカへ移民する人々が集まる街でもあった。家計を助けるため13歳から酒場でピアノを弾いていたブラームスが、その中でもっとも多いハンガリー人からジプシー音楽を覚えたということは、自然なことであろう。
  そして、20歳の時に人生最大の転機をもたらしてくれたのが、ハンガリー人のヴァイオリニスト、レメーニだった。レメーニに抜擢され伴奏者として演奏旅行を一緒にする中で、ブラームスは彼から多くのハンガリー民謡を教わっただけでなく、レメーニと同郷の若きスター・ヴァイオリニスト、ヨアヒムに紹介してもらったお陰で、シューマンとクララとの運命的な出会いに繋がることともなったのだった。
1869年ブラームスはそれまで書きとめていたハンガリーの民謡を、5曲ずつ二巻の4手連弾の「ハンガリー舞曲集」として編曲出版し、大人気となりブラームスの名が一躍全ヨーロッパに知れ渡った。しかしその成功を妬んだレメーニがブラームスを著作権の侵害だと訴えたが、ブラームスが最初から作品番号を付けず、編曲としたことで勝訴した。その後はブラームス自身の創作による第三と第四の二集(第21曲まで)も作られたが、前作ほどの人気はないようだ。なお、「ハンガリー舞曲」の連弾と独奏は、いずれもクララ・シューマンによって初演された。
  一方では、ブラームスの家族にはもともと、気どらない快活で単純なオーストリア人気質に対する愛情があったようだが、ブラームスが1859〜61年ハンブルクで指導していた女性合唱団の中にウィーン出身のベルタ・ボルブスキーが居り、彼女の中にウィーン気質というものを初めて知った。そして、彼女の歌う愛らしいオーストリア民謡を飽きずに聴いていた。そこからウィーンを見てみたいという気持ちが高まって、ついに62年に自分に冷淡だった郷里を去り、ウィーンに移住することとなった。
  ウィーンではブラームスはピアニストとして成功し、多くの音楽家の知遇にも恵まれた。そういうウィーンへの感謝の気持ちも込めて、1865年冬に16曲から成る4手連弾のワルツ集が作られたのだ。
  ブラームスにはめずらしく、一曲たりとも重苦しいものがなく、「シューベルト風な形の無邪気な小さいワルツ」、そして「ウィーンとウィーンの綺麗な娘たちを考えて作った」とブラームス自身が述べたように、どの曲も明るくやさしい気持ちに溢れている。特に第15曲は「ブラームスのワルツ」と呼ばれるくらい広く愛好されている。

    ブラームス
3つの間奏曲作品117
      自身もピアノのヴィルトオーソだったブラームスのピアノ曲は思いのほか少ない。ピアノ・ソナタ3曲はいずれも23歳くらいの作品で、そのあとの10年間に変奏曲や編曲が十数曲ばかり続いたあと、再びピアノのための本格的な作品を書いたのが20年後の59歳の時だった。もちろん、その間に作られた夥しい室内楽や歌曲には、ピアノが常に考え抜かれた形で作品の中心として存在していたが、その時代のブラームスの溢れる曲想と漲る創作意欲を表現するには、ピアノ・ソロでは不十分だったとも考えられる。
  1885年(52歳)から88年にかけて、「交響曲第4番」、「チェロソナタ第2番」、「ヴァイオリン・ソナタ第2、3番」の傑作群を書き上げ、90年「弦楽五重奏曲第2番」の完成後、ブラームスは急に創作力の衰えを自覚した。91年には遺書までを作成したが、その年にクラリネット奏者ミュールフェルトの演奏に感激、新鮮な創作力が押し寄せるのを感じた。その年に生まれたのが「クラリネット三重奏」と「クラリネット五重奏」の2名作だ。
  そして92年の夏、避暑地として亡くなる前の年まで滞在したイシュルで20曲のピアノ小品集(作品116〜119)が作曲された。この年の前半に一番親しい友人エリザベート・フォン・ヘルツォーゲンベルクと姉エリーゼが相次いで死去。独身のブラームスには、人生の暮色深しという孤独感がいよいよ深まってきた。
  一方では、91年にシューマンのニ短調の交響曲の再版をめぐって、クララ・シューマンとの間に生じた友情の不和は、ブラームスが和解に歩み寄ったことで、この年に二人がもとの親しい関係を取り戻し、二人の人生の夕暮れに心静かな暖かい落日が差してきたのだった。この年のもろもろの人間関係の変化がこの珠玉のピアノ曲集の誕生のきっかけとなったと考えられる。
  これらの曲に共通しているのは、ブラームスが人生において到達した、澄み切った諦観ともいうべき心境の吐露であり、音符は簡素、精巧となり、技術的にはさらに洗練の度を増している。これらの曲は、内面の感情の追求や詩と文学と結びついた、ロマン派の音楽が辿り着いた完璧な終着点ともなった。
  「間奏曲」という呼び名は、シューマンがピアノ曲において、ロマン的、幻想的でいくらか沈みがちなものに名付けたのが最初で、明確な言葉で曲の感情を説明できない場合に19世紀のドイツ・ロマン派の作曲家たちが好んで「インテルメッツォ」というタイトルを使った。ブラームスもこの20曲の曲集の中の夢想的な曲想の曲に「間奏曲」と名づけていたようだ。
  「3つの間奏曲作品117」の第1曲は詩人ヘルダーの民俗歌曲の中の「不幸な母親の子守歌」から二行が引用されている。「やさしく眠れ、わが児、眠れ、やさしく美しく!私はお前が泣くのを見るのがたまらない」。ブラームスはこの曲を「自分の苦悩の子守歌」と述べた。
  クララ・シューマンは92年の10月にこの曲集の存在を知り、最期の年まで折にふれて弾いていたという。

    クララ・シューマン
「ラルゲット」
〜「4つの束の間の小品」作品15より第1曲
      作曲家シューマンと結婚したことで、クララはいよいよ夫の芸術を守り育てるために、自分の生涯をささげる決心を強くした。しかし、シューマンは10代から作曲家としても世に知られた妻(クララは11歳の時に「4つのポロネーズ」を出版した)が家事などで作曲が不可能になったことを嘆いていた─「彼女は間歇的にしか作曲に力を注ぐことができない。そのためにどんなに美しい楽想が失われたか、私はときどき悲しく思うのである」。「ラルゲット」はクララが長女マリーを出産したあと、1840〜44年頃の一番幸福な時期に作曲され、同じくピアニストを目指し既に演奏活動を始めていた13歳の腹違いの妹マリー・ヴィークに捧げられた。

    ウェーバー
「ロンド」
〜ピアノ・ソナタ第1番作品34より第4楽章
      「魔弾の射手」や「オベロン」などロマン的ドイツ・オペラを確立したウェーバー(1786〜1826)は13歳でオペラの処女作を作曲、ピアニストとしても演奏活動を開始していたくらいモーツァルトに酷似した才能と境遇をもっていた。(その上、モーツァルトはウェーバーの伯父の三女のコンスタンツェと結婚しているので、親戚でもあるのだが)。
  この「ロンド」は1812年(26歳)演奏旅行でワイマールに立ち寄った時に、そこの大公のピアノの達者な娘のために作られ、その後から逆の順で第1楽章までが書き進められ、ソナタ第1番とした。
  無窮動の華麗で色彩豊かなこの曲は、19世紀にはかなり人気を博していたようで、ブラームスも1852年にこの曲を編曲している。

  The encounter of Clara Schumann (1819~96) , Robert Schumann (1810~56) and Brahms (1833~97) was a very important incident in the music history. Without knowing Clara, Schumann and Brahms' works would probably have been quite different. For the two composers, Clara was the goddess of inspiration and the sharer of their genius. Clara Schumann started her musical career as a child prodigy. In her teens, she was deemed as equal to the male pianists at her time such as Liszt, Thalberg and Henselt, and she was also respected by composers such as Mendelssohn and Chopin. She was not only a star performer who had owned a illustrious concert career well over 60 years, but also a renowned teacher, successful editor, and the first female composer ever recognized.
  However, her life was constantly filled with sorrow and trouble.
  When she was five, her parents divorced. Her domineering father, who was a piano teacher, educated her to be a child prodigy, so she had no chance to lead a normal childhood.
  Her romance with Robert Schumann and the first few years of their marriage were the most happy days of her life (yet the marriage was won after a lawsuit against her father), but after fourteen years of marriage, Schumann became mentally ill and attempted suicide by throwing himself into the Rhine River. Two years later, he died in an asylum at the age of forty-six. In order to raise her seven children (and later plus six grandchildren), Clara held more than sixty concerts a year all around Europe for the following decades, but ironically these tours forced her to live apart from her children, unable to afford them a warm environment that they needed. Her three sons were all ill, which tormented Clara mentally and financially for a long time. Clara herself was also plagued by illness. In her later years, she suffered from rheumatism and defective hearing, which was especially unbearable to her.
  During her troublesome life, her main spiritual support was perhaps her friendship with Brahms. Brahms met Robert and Clara Schumann when he was twenty in September 3rd, 1853, through the introduction of the violinist Joachim. Since that day, he remained a truthful and respectful friend of Clara Schumann for the following forty-three years (In his later years, Brahms wrote to Clara in a letter on their relationship: "the forty years of faithful service to you"). This was perhaps the most beautiful friendship in the music history, and their relationship inspired Brahms to write his numerous masterpieces.

    Robert Schumann
Romance in F sharp major 3 Romances, op. 28 No. 2
"Widmung" (arr. Liszt)
~from "Myrten" op. 25 No. 1
    In August 1837, Clara married Schumann despite her father's strong objection, and started a three-year-long battle with her father. After returning to Leipzig with her father from a successful concert tour in Vienna that lasted from October 1837 to May 1838, Clara, then aged eighteen, decided to marry Robert Schumann. In order to break new ground, and in the hope that Clara's father might give consent to their marriage outside Leipzig, Clara persuaded Schumann to go to Vienna by himself.
  In January 1839, Clara also decided to leave her father and went to Paris for a concert tour on her own for the first time in her life. Compared to Clara's success in Paris, Robert Schumann didn't have a chance to demonstrate his talent in Vienna under the reign of Metternich. In April 1839, Schumann left Vienna and went back home. "3 Romances op. 28" was written in this period and was the last of the series of piano works he had written since 1837. (He had not written piano works since then until 1845.)
  The lawsuit over the marriage, which began in December 1839, was finally won in July 1840 by the young couple against Clara's father, and the concert in Weimer held on September 5th was the last one in which Clara performed with her maiden name―on September 12th, the day before Clara's 21st birthday, she was married and became Clara Schumann.
  On the eve of their wedding, Clara received the most wonderful present that a groom could ever give to her bride: a collection of songs wrapped in myrtle leaves, with the dedication―"for my beloved bride." This collection of twenty-six songs were later published as "Myrten," and the first song "Widmung" was arranged into a elaborated piano piece in 1848 by Liszt, whom they still befriended at that time.
  Schumann never expected that this marriage was the start of their stormy lives, and the two pieces "Romance op. 28-2" and "Widmung" seemed to be written out of his unlimited love and care for his fiance´, Clara. Fifty-six years later, in May 1896, Schumann's grandson Ferdinand played this "Romance in F sharp major" for Clara, who had been sick in bed for a long time. This was the last music she ever heard in her life. A few days later, at 4:21 in the afternoon of May 20th , Clara Schumann finished her troublesome yet fruitful life at the age of seventy-seven.

    Brahms
Waltzes op. 39
Hungarian Dances No. 1, No. 7
      Brahms' symphonies and chamber music (and perhaps his bearded portrait) often give the impression of grave and solemn German style, but the following facts may be surprising for those who hold such a view towards him : Brahms had actually resided in Vienna ever since 29; he befriended Johann Strauss and was a big fan of his waltz music; even after death, the two great composers' tombs were situated side by side. Besides, the biggest income throughout Brahms' life was the two volumes of Hungarian Dances which he had arranged from the Hungarian folk songs. In 1889, when a representative of Edison asked him to record some music with phonograph, he played the first Hungarian dance and a few waltzes.
  Brahms had never left the slums of Hamburg until he was twenty, and it's an essential key for understanding Brahms' music that he always had a strong yearning for the Bohemian or Viennese temperaments since his youthful days.
  In the early days of the 19th century, people who wanted to emigrate to America gathered from all over Europe to Hamburg, the largest port in North Europe. Brahms started playing piano in bars to earn money at thirteen, and it was natural that he learnt gypseian music from the Hungarians who were the majority of the emigrants.
  When he was twenty, he went on a concert tour with the Hungarian violinist Eduard Reme´nyi as an accompanist. This was the biggest turning point in his life. During their travel, Brahms not only learnt many Hungarian folk songs from Reme´nyi, but also met Reme´nyi's fellow countryman, a young and popular violinist named Joachim, who introduced Brahms to Clara and Robert Schumann.
  In 1869, Brahms edited and published two volumes of "Hungarian dances" (five pieces in each) for piano four hands. The popularity of these pieces made him famous all over Europe. Reme´nyi, who was envious of his success, sued Brahms as violating the copyright. Brahms won the case, since he didn't number the works in the first place, and treated them as arrangements. Later he also published volume 3 and 4 (a total of 21 pieces) which contained his own original works, but they were not as popular as the first two volumes. By the way, the solo and duet of "Hungarian dances" were both premiered by Clara Schumann.
  On the other hand, the Brahms family seemed to love the frank and happy Austrian temperament, and when Brahms was conducting a ladies' choir during 1859~61 in Hamburg, he met a Viennese girl named Bertha Porubszky, which was his first encounter with the so-called Viennese temperament. He enjoyed listening to her singing Austrian folk songs, and he started to yearn for going to Vienna. In 1862, he left the indifferent hometown, and moved to Vienna.
  In Vienna, Brahms became successful as a pianist, and met a lot of famous musicians. To express his gratitude towards the city, he wrote 16 pieces of waltzes for piano duet in the winter of 1865.
  These works were not as gloomy as most of Brahms' works, and as he described each work as "A small waltz in the style of Schubert" or "Written with the image of Vienna and the beautiful Viennese girls in mind," every piece is bright and gentle. No. 15 is the most popular piece among them, and is also called "Brahms' Waltz."

    Brahms
Three Intermezzi op. 117
      As a piano virtuoso, Brahms didn't leave too many piano works. The three piano sonatas were all written when he was about twenty-three, and during the following ten years he only wrote variations or arrangements for piano. He didn’t write further formal piano works until twenty years later, when he was fifty-nine. Of course, in the numerous chamber music and songs he had written, piano was always the central part of the composition, but during this period, perhaps the form of piano solo was simply not enough to transmit his gushing inspiration and creative power.
  From 1885 (aged 58) to 1888, he had written the masterpieces including: the Fourth Symphony, Cello Sonata No. 2, Violin Sonata No. 2 and No. 3. After finishing String Quintet No. 2 in 1890, Brahms became aware of the decaying of his own creativity, and he even drew a will in 1891. However, in the same year he was greatly impressed by the performance of the clarinetist Richard Mu¨hlfeld, and with refreshed creativity composed two masterpieces: Clarinet Trio and Clarinet Quintet.
  In the summer of 1892, he wrote twenty piano pieces (op. 116~119) in Ischl, where he stayed until the previous year before he died. In this year, his best friend Elizabeth von Herzogenberg and his sister Elise both died. Brahms, who remained single, must have felt the extreme loneliness towards the end of his life.
  On the other hand, the discord between him and Clara Schumann in 1891 over the re-edition of Schumann's Symphony in D minor was resolved this year due to Brahms' concession; the two friends restore their friendship, maintaining a peaceful and warm relationship in their final years.
  These changes in his relationships had perhaps contributed to the composition of these precious piano pieces.
  These works reveal a clear and calm state of mind which Brahms had reached through his wisdom towards life. The notes are simple and delicate, while the techniques more refined. They represent the final goal of musical Romanticism, in which the search for inner emotions is combined with poems and literature.
  The term "Intermezzo" was first used by Schumann to refer to romantic, fantastic and somehow moody music pieces. The 19th century German Romantic composers liked to use "Intermezzo" as titles when it was difficult to define the feelings in the works with words. Brahms also named some of the most fantastic pieces in the twenty piano pieces as "Intermezzo."
  The first piece of "Three Intermezzi for piano, op. 117" cites the words from the poet Herder's folksong: "Sleep softly, my child, sleep softly and fine! It grieves me a lot to see you cry." Brahms called this work as "lullabies of my sorrows."
  Clara Schumann learnt the existence of this collection in October 1892, and played them occasionally until the last year of her life.

    Clara Schumann
"Larghetto"
~from "4 pieces fugitives" op. 15 No. 1
      When Clara married the composer Schumann, she decided to dedicate her life to her husband's music. However, Schumann felt it a pity that his wife, who were known as a composer since her teens (Clara published "Four Polonaises" when she was eleven), was occupied with house chores and could not concentrate on composing. "She can only compose music intermittently, and it makes me sad to think that so many beautiful musical ideas were lost for that."
  "Larghetto" was written after the birth of Clara's first daughter, during the happiest period of her life from 1840 to 1844, and was dedicated to her step-sister who was thirteen years younger and was also starting her career as a pianist.

    Weber
"Rondo"
~from Piano Sonata No. 1 op. 34 the 4th movement
      Weber (1786~1826) established the foundation of German Romantic Opera with his works like "Der Freischu¨tz" and "Oberon." He wrote his first opera when he was thirteen, and at the same time started to play piano on stage, showing great talents at an early stage of life just like Mozart (the two were also related by the fact that Weber's cousin was Mozart's wife.)
  "Rondo" was composed in 1812 when Weber was twenty-six. He made a concert tour to Weimar this year and wrote this work for the duke's daughter who was gifted in piano. He then went back to write the previous movements, completing his Sonata No. 1.
  This work with "perpetual motion" and exuberant tones was very popular in 19th century. Brahms had also arranged this piece in 1852.

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